「誰かに対して、なにか特別な好意を示してあげたいと思うときにはいつも、わたくしは、ピアノに向かってその人のためにモーツァルトの作品を一曲演奏するのがつねである。」
(エドウィン・フィッシャー『音楽を愛する友へ』より)
そのような個人的な演奏は、録音されることもなく、まさに一期一会で現れ、消えていく。
贈りものというのは、その物ではなく好意を受けとるものだ、という言葉をどこかで目にして、この話を思い出したのだ。
「われわれの芸術においては、すでに地上に束縛されてはいない、およそ考えうるかぎりもっとも物質的要素を離脱した素材が用いられる----すなわち魂の躍動が。」(エドウィン・フィッシャー)
このように音楽はそれ自体物質体を持たないので、もっとも軽やかに好意を乗せることができるのかもしれないな、と思う。
私はピアノなどほとんど触ったことさえないのでこんな軽やかな贈り物はできないが...
ずっと昔、ある人の誕生日に花を贈り、そのときは「ありがとう」と言ってくれたのに、後日他のところで「花なんかもらっても嬉しくねーや」と言っているのを聞いてしまい悲しかったことがある。
花ではなく別のものならよかったのか、という話ではないだろう。受けとってもらえなかったのは好意のほうなのだ。
「こんなもの貰ってもねぇ...」と言うとき、その目は物だけを見ている。誰もきらいな人に贈り物をしないだろうから、そこには好意があったはずなのに、それはどこかにこぼれ落ちてしまう。
霊視者の目でみると、好意は開いた花のかたちをしているという。花が咲いているのを見ると嬉しいのは、それが自然界からの好意いっぱいの贈りものだからだろうか。
エドウィン・フィッシャーの演奏は、私はとても古い録音で幾つか聴いたことがある。
透き通るような珠玉の言葉で書かれた『音楽を愛する友へ』は、新潮文庫から出ていたが今は絶版になってしまった。
2019年12月11日
贈り物・3
posted by Sachiko at 21:57
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