「植物と叡智の守り人」(ロビン・ウォール・キマラー著)から、ガマを使い尽くす話の続き。
ガマの生えた沼地はあらゆるものを提供してくれるマーケットのようだ。食料、繊維製品、住まいや薬になる材料....
そしてマーケットを廻りながら、賢い先住民の智恵が語られる。
「薬は病気の原因のそばに生える」
ガマの葉の根元を剥がすと、ねばねばしたゼリー状のものが出てくる。このゼリーが、ガマの収穫で日焼けした肌につけると爽やかで抗菌性もある薬になるのだ。
ネイティヴアメリカンの言葉の中には、植物を表わす単語が「私たちの面倒を見てくれる者」という意味になるものがあるという。
ガマの生える湿地について書かれている文章は美しい。
『・・・淡水湿地は、地球上でもっとも豊かな生態系のひとつで、熱帯雨林と双璧をなす。
そこは魚や動物も豊富だった。浅瀬では魚が散乱し、カエルやサンショウウオもたくさんいた。水鳥たちは密集して生えるガマの剣のような葉に護られてそこに巣をかけ、渡り鳥は旅の途中の安らぎの場所としてガマの生えた沼を求めるのである。』
だが、やはりこの湿地もほとんど失われてしまった。
排水されて農地にされ、多様な生物を養っていた土地が、ただ一種類の作物を育てるようになる....
多様な生態系があった場所の行く末は、世界のどこでも同じようだ。
以前「カントリーヘッジ」という絵本を紹介したことがある。かつて土地の境界に使われていた多様な植物による生垣が、人々にとっても食品庫であり薬棚でもあったという話だ。
日本の里山も、かつては豊かな生態系だった。
それらは目先の利益をもたらさなかったかも知れないが、循環しながら長く続いていく生命力を持っていた。
単一作物の畑も、単相林も、短期間で土地が疲弊する。
前にも書いたかもしれないけれど、私はずっとこう思っている。人間の暮らしに必要なものは、本来自然界にすべて用意されているはずだ。
多くを与える沼地のガマのような植物は、その土地ごとに存在しただろう。
共存、共働は自然の姿で、多様な生態系がもたらす豊かさは、貨幣経済という単一視点による豊かさとは別次元の拡がりを持っていたはずだ。
それは物質生活だけでなく、魂を喜ばせ、霊性をはぐくみ、土地ごとの文化を育てた。
現代の渇いてやせ細った魂は、その深奥では、生きものたちや“特別な植物”のある豊かな饗宴の座に加わりたくてたまらないのではないだろうか、と思う。
posted by Sachiko at 22:28
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