2019年09月02日

道路掃除夫ベッポ

ミヒャエル・エンデ「モモ」より。

モモにはふたりの特別な友だちがいる。ひとりは若者で、もうひとりはおじいさんだ。
おじいさんの名前は、道路掃除夫ベッポ(Beppo Straßenkehrer)、道路掃除夫は職業名だが、みんなは苗字代わりにそう呼んでいる。

彼は何かきかれてもすぐには返事をしない。質問をじっくり時間をかけて考え、それから返事をするのだが、そのときには相手は自分が何をきいたか忘れてしまっているので、ベッポは頭がおかしいんじゃないかと思ってしまう。

-----------

・・・でもモモだけはいつまでもベッポの返事を待ちましたし、彼の言うことがよく理解できました。

・・・彼の考えでは、世の中の不幸というものはすべて、みんながやたらとうそをつくことから生まれている、それもわざとついたうそばかりではない、せっかちすぎたり、正しくものを見きわめずにうっかり口にしたりするうそのせいなのだ、というのです。

-----------

「…世の中の不幸というものはすべて、みんながやたらとうそをつくことから生まれている」

このベッポの考えを、ふと思いだしたのだ。
もちろんここでいう嘘は、詐欺師のような嘘とは違う。普通の人は、あえて人を騙すために事実でないことを言うようなことはしない。

慣用的な社交辞令など、嘘をつこうとしているわけではないだろうが、真実もこもっていない言葉は「方便」と呼ばれる。
これはこれで大人社会では役に立つし、使いこなせなければいけないのだろう。

私もそれなりに使っていたが、ある時それが耐えがたくなった。
例えば興味のないことに誘われたとき、大した予定もないのに「その日はちょうど予定が入っていて...」などと言って断る方便は、不誠実だし失礼だ。興味がないことをきちんと伝えて、別の共有できることを共有すれば、何の問題もない。

ベッポが質問をじっくり考え、答えたときには、相手は何をきいたのか忘れてしまっている。
「問う」ということについて、エンデとの対談のあとがきだったか、子安美知子氏がこのようなことを言っていた。

「質問に対して、相手がその答えにかけなければならない重さをともに背負う覚悟があるとき、初めて人は、問うことが許されるのではないだろうか」

ところでモモのもうひとりの親友ジジは、ベッポとは真逆のおしゃべりな若者で、あることないこと並べたてて話を作る。
これほど違っているにもかかわらず二人は仲よしで、ジジを軽薄だと非難したことのない唯一の人がベッポで、ベッポを笑いものにしたことのないたったひとりの人がジジだった。

ベッポは言葉に真実をこめて誠実に扱おうとし、ジジは人を楽しませることのできる言葉に心底喜びを感じているのだった。

ベッポじいさんは、その言葉の扱い方のように、丁寧に仕事をする。
目の前の一歩を見て、ひと足、ひと掃き、ひと足、ひと掃き....そうして、長い道路の清掃はいつのまにか終わっている。

またある時ベッポは、世界が透きとおって時間の層が重なっているのを見た。その別の時代に、ふたりの人間がいた。
「わしには、わしらだとわかった-----おまえとわしだ。わしにはわかったんだ!」

モモはベッポの言葉をだいじに心にしまっておいた。
私はこの、モモを相手にベッポが深い静かな話をする場面が好きだ。

盗まれた時間を取り戻したあと、モモが最初に再会したのはベッポで、それはすばらしい喜びのときだった。
   
posted by Sachiko at 21:58 | Comment(2) | ファンタジー