2019年09月08日

サルビア・パテンス

サルビアの仲間は、花が少なくなる秋に咲いてくれる品種も多い。このサルビア・パテンス(和名:ソライロサルビア)は、夏に切り戻すと秋まで繰り返し咲いてくれる。

patens.jpg

耐寒性がさほど高くないので(−7度)、秋の終わりに鉢上げして家の中で冬を越す。−10度まで耐えるという説もあったので一度植えっぱなしにしてみたが、やはり春には消えてしまっていた(-_-)
ずいぶん前に近くの園芸店で見つけて気に入って以来、庭に欠かせない花になった。

パテンスは、サルビア族の中では最も大型の花をつける。
何といっても魅力はこの色、気温が下がればもっと鮮やかな青になる。澄んだロイヤルブルー!天上の青だ。
  
posted by Sachiko at 21:41 | Comment(0) |
2019年09月06日

暗闇と沈黙と

地震とブラックアウトからちょうど1年ということで、ローカルメディアは数日前からいろいろ特集を組んでいる。

結局一番私の印象に残っているのは満天の星空だったりするのだが....
あの時星空を見上げた人は多かった。
これほどの星が見られるなら、たまに街の電気を消してみるのもいいのではないか、と言った人もいた。

濃い暗闇は、かすかな光を見えるようにする。深い沈黙は、かすかな音を聞こえるようにする。

それらは、ふだんの都会の溢れかえる光や音の中ではかき消されてしまっているものだ。

真っ暗闇になった時に、星があるのはいいことだ。


暗闇の中の美の話として、ヴィクトル・フランクルの「夜と霧---ドイツ強制収容所の体験記録」の中のこんなエピソードがある。

想像を絶する過酷な収容所生活、極限状態の中で、一日の労働を終えた囚人たちが夕焼け空に目をうばわれ、「世界は何て美しいんだ!」と感嘆したという話だ。

どんな状況であれ、それよりも遥か高い次元に美がある。それを知るのはいいことだ。
  
posted by Sachiko at 21:03 | Comment(2) | 未分類
2019年09月05日

苔の伝説

少し前に苔のことを書いたが、ドイツ伝説集の中に、苔小人の話が入っているのを見つけた。

苔女の話は、1635年頃と、年代まで特定されている。
ザールフェルトの近くに住む農夫が木を伐っていると、苔女がやってきて、最後の木を倒したら十字を三つ幹に刻むように、きっと良いことがあるから、と告げた。

農夫はそれを信じなかったが、翌日また苔女が現われて、「狩魔王から逃れたければ、十字を三つ彫った木の幹に腰を下ろすしか手がない」と言った。

それでも農夫が十字を彫ろうとしなかったので、苔女は農夫に飛びかかって押さえつけたため、農夫は息も絶え絶えになった。
それ以来農夫は苔女のいうことを聞いて十字を彫るのを忘れず、痛い目に遭うこともなくなった。


緑の苔の衣で覆われた苔族の小人はよく知られていて、木工や陶工はこれを人形にして売っている。狩魔王はとりわけこの苔小人を追い回しているという。

緑の苔の衣を着た小人の姿は、いかにもドイツの絵本や工芸品にありそうだ。
ウルスラ・ブルクハルトの「カルリク」の中にも、ノームともエルフともつかない仲間として苔小人の存在が書かれている。

苔女の話は17世紀だから、もう中世を過ぎている。人々の意識が明るくなり始めた時代だが、森には自然霊たちが満ちていて、そこで働く素朴な農夫たちはまだ小人を知覚する能力を保っていたのだろう。

絵になりそうな苔小人、視る能力さえあれば、深い森の苔むした巨樹の根元などに、彼らはまだ棲んでいる気がする。
  
posted by Sachiko at 22:05 | Comment(0) | 神話・伝説
2019年09月04日

鳥が行く

大きさからして水鳥らしき灰色の鳥が、5,6羽の小さな群れを作って飛んでいった。
最近たまに見かけるのだが、何の鳥なのか、調べてもよくわからない。雁の仲間だと思うが、もう少し首が長い気もする。

飛んで行った方向からすると、近くの水場ならペケレット湖かモエレ沼、もう少し遠くなら月形あたりの沼地だろうか。

そうか、逆引きすればいいんだ。
近郊の沼地で見られる鳥を調べてみたが、やはり特定できない。

森の小鳥はきれいな声で鳴くのに、水鳥や大型の鳥はガアガア、ギャアギャアと、お世辞にもいい声とはいえないのはなぜだろう。
大きさの問題かと思ったが、大型でもトビなどは独特の味がある鳴き方だ。

そういえば鳥の歌と空気の精との関係性がどこかに書かれていた。水鳥にはきっと水の精も関わっているだろうから、そのあたりの違いだろうか。
水鳥と森の小鳥は、きっと魂的にも別の役割を持っているのだろう。

今度見かけたらもう少し細部を見てみたいと思うが、飛ぶ鳥を観察するのは難しい。

野鳥や昆虫など、人の手で交配されたりせずにまだ自然界に属している生きものを目にすると、自分の内部でも何かが健やかになる気がする。
  
posted by Sachiko at 22:04 | Comment(0) | 自然
2019年09月02日

道路掃除夫ベッポ

ミヒャエル・エンデ「モモ」より。

モモにはふたりの特別な友だちがいる。ひとりは若者で、もうひとりはおじいさんだ。
おじいさんの名前は、道路掃除夫ベッポ(Beppo Straßenkehrer)、道路掃除夫は職業名だが、みんなは苗字代わりにそう呼んでいる。

彼は何かきかれてもすぐには返事をしない。質問をじっくり時間をかけて考え、それから返事をするのだが、そのときには相手は自分が何をきいたか忘れてしまっているので、ベッポは頭がおかしいんじゃないかと思ってしまう。

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・・・でもモモだけはいつまでもベッポの返事を待ちましたし、彼の言うことがよく理解できました。

・・・彼の考えでは、世の中の不幸というものはすべて、みんながやたらとうそをつくことから生まれている、それもわざとついたうそばかりではない、せっかちすぎたり、正しくものを見きわめずにうっかり口にしたりするうそのせいなのだ、というのです。

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「…世の中の不幸というものはすべて、みんながやたらとうそをつくことから生まれている」

このベッポの考えを、ふと思いだしたのだ。
もちろんここでいう嘘は、詐欺師のような嘘とは違う。普通の人は、あえて人を騙すために事実でないことを言うようなことはしない。

慣用的な社交辞令など、嘘をつこうとしているわけではないだろうが、真実もこもっていない言葉は「方便」と呼ばれる。
これはこれで大人社会では役に立つし、使いこなせなければいけないのだろう。

私もそれなりに使っていたが、ある時それが耐えがたくなった。
例えば興味のないことに誘われたとき、大した予定もないのに「その日はちょうど予定が入っていて...」などと言って断る方便は、不誠実だし失礼だ。興味がないことをきちんと伝えて、別の共有できることを共有すれば、何の問題もない。

ベッポが質問をじっくり考え、答えたときには、相手は何をきいたのか忘れてしまっている。
「問う」ということについて、エンデとの対談のあとがきだったか、子安美知子氏がこのようなことを言っていた。

「質問に対して、相手がその答えにかけなければならない重さをともに背負う覚悟があるとき、初めて人は、問うことが許されるのではないだろうか」

ところでモモのもうひとりの親友ジジは、ベッポとは真逆のおしゃべりな若者で、あることないこと並べたてて話を作る。
これほど違っているにもかかわらず二人は仲よしで、ジジを軽薄だと非難したことのない唯一の人がベッポで、ベッポを笑いものにしたことのないたったひとりの人がジジだった。

ベッポは言葉に真実をこめて誠実に扱おうとし、ジジは人を楽しませることのできる言葉に心底喜びを感じているのだった。

ベッポじいさんは、その言葉の扱い方のように、丁寧に仕事をする。
目の前の一歩を見て、ひと足、ひと掃き、ひと足、ひと掃き....そうして、長い道路の清掃はいつのまにか終わっている。

またある時ベッポは、世界が透きとおって時間の層が重なっているのを見た。その別の時代に、ふたりの人間がいた。
「わしには、わしらだとわかった-----おまえとわしだ。わしにはわかったんだ!」

モモはベッポの言葉をだいじに心にしまっておいた。
私はこの、モモを相手にベッポが深い静かな話をする場面が好きだ。

盗まれた時間を取り戻したあと、モモが最初に再会したのはベッポで、それはすばらしい喜びのときだった。
   
posted by Sachiko at 21:58 | Comment(2) | ファンタジー