2019年08月28日

夢の中の時間

「《まるい時間》を生きる女、《まっすぐな時間》を生きる男」(ジェイ・グリフィス著)という本を読んでいる。

この日本語版タイトルは見事で、テーマの本質を突いている。
原題は「PIP PIP」という。これは原子時計が秒を刻むピッピッという音のことらしい。

中に、子どもの時間についての記述がある。

「子供たちは“いま”という時間、野生の時間、永遠に対する天性の鋭敏な感覚に恵まれているため、おとなたちはそれを飼いならす必要がある」


昔、友達とこんな話をしたことがあった。
たまに、子どもの頃の友だちが夢に出てくることがあるが、夢の中の彼らは子どもの姿のままだ...
すると、こう訊かれた。
「で、自分は?」

え?自分はどうだろう。
「そういえば…自分はわからない」と答えた。
その夢の中で、私も昔の姿なのか、大人の私がそこにいるのか...

夢の中では時間が交錯している。
以前ある作家が、いまだに学生時代の試験で苦しんでいる夢を見ると言っていた。
そして、そこでは学生の自分と、すでに作家になっている自分がごっちゃになっていて、「大変だ、この試験落としたら、また小説書いて学費稼がなきゃ」と思っている...という話だった。

私もよく、出席時間が足りなくて単位がとれずこのままでは留年!という夢に悩まされたが、さすがに最近は見なくなった。

夢の時間はきっと、まるい時間だろう。
時間ではあるが、同時にすべての時間がそこに並んでいる空間でもあるように感じる。


著者はこう言う。
「…子供たちはつねにわれわれとともにあり、前産業革命時代のなかに生き、そのさまざまな果実のまじった時間、遠まわりの時間、遊び時間、タンポポの時間を生きているからだ。…子供たちは頑丈な多年草であり、それよりもっとはるかに価値があり、はるかに楽しいなにものか、遊びという革命の時間をしっかり守っているからだ。」

だがタンポポの時間を生きている子供たちは今も健在なのか、残念ながらわからない。この本の初版は1999年、前世紀だ
長時間学校に拘束されたあげく、さらに塾やら学童デイサービスやらに捕まって飼いならされていないか?

近年はますます、女性も子どももまっすぐな時間を生きるように強いられている気がする。まるでそれだけが正当な時間であるかのように。

本はまだ読みかけなので、今後また時間の話は続くと思う。
もちろんどちらか一方が正しいわけではない。円と直線が融合すると、聖なる螺旋形になる。
そのためには今、生き生きとしたまるい時間が息を吹き返さなければ。
  
posted by Sachiko at 22:27 | Comment(2) | 未分類