2019年08月30日

ブラックな話

今日は新月。一か月に二度新月がある場合、二度目をブラックムーンというそうな。

二度目の満月をブルームーンというのは聞くが、ブラックムーンは初めて知った。昔から言われていたのか最近できた言葉なのかはわからない。
いずれにしても占星術などの世界で使われる言葉で、天文学用語ではないようだ。

昨日はブラックベリーの話だったし、ブラックつながりというわけではないけれど、最近のブラック校則は昔よりひどくなっているという話を聞いた。

かつて、がんじがらめな校則に順応した子供たちは、自分たちが大人になったときにはもっとひどい管理社会を作り出すだろう、という警告が新聞に載っていたことがあったのを、なぜか憶えている。

思えば私はブラック校則には遭遇したことがない。
高校の生徒手帳1ページの半分くらいに数行何か書いてあったような気がするが、「〜〜は自由とする」とか「〜〜についてはこれを認める」とかいうもので、禁止事項はひとつもなく、他校の友達に見せたら驚かれたが、今はどうなったことか。

こと細かな規則を決めて従わせ、そこから外れたら罰するようなことを「きちんとした良いこと」と信じている人もまだ多いのだろうか。

シュタイナーの、悪の二面性の話がある。
きちんとしているのは良いことだが、どうでもいいような細かいことにこだわる杓子定規になれば、悪のはたらきになる。

その逆の、いい加減さやだらしなさも悪といえるが、おおらかさ、鷹揚さになると、よいはたらきになる。
現代の悪についての話は、長くなるのでまた別の機会に譲ろう。

おおらかさ、鷹揚さ、機転とユーモア....
それで思い起こすのはやはりムーミンママだ。なんと絶妙なバランスの持ち主だろうとあらためて思う。

ブラックといえば、あの地震によるブラックアウトから、もうすぐ1年が経つ。真っ暗になった空一面の星は美しかった。
  
posted by Sachiko at 21:43 | Comment(2) | 未分類
2019年08月29日

ブラックベリー

庭のベリー類の中で、最後に実るのがこのブラックベリーで、真っ黒に熟したら食べ頃だ。夏の終わり頃から熟しはじめ、秋遅くまで収穫できる。

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植えっぱなしで手間がかからず、雪が降る前にバッサリ剪定しても、春になれば新梢が伸びすぎるくらい伸びる。
肥料もやらず、もちろん農薬も使っていないのに、毎年たくさんの実がなる。

ベリー類は元々が野山に自生していたものなのだから強健だ。その風味からは、野生の強い生命力を感じる。

ムーミン谷のあるフィンランドでは、森の中に(公園だろうが私有地だろうが)自生しているベリーは誰でも自由に採っていいことになっているそうだ。

ベリーは日持ちしないので、収穫したらすぐに冷凍し、必要なときに解凍してジャムを作る。こうして次にベリーが実るまで(最初は6月のハスカップ)、冬中食べる分のジャムは確保できる。
ブラックベリーのジャムはあまり市販されていないが、ブルーベリーよりずっとおいしいと思う。

人間のからだは、こういう野生の恵みを少しだけ受けとって生きていけるようにできてはいないのだろうか。
文明の初期にはそうだっただろうし、シベリアの賢女アナスタシアはそのように生きているはずだ。

野生種のベリーには、どんなグルメ料理も敵わないような命の味がある。それはからだだけでなく、意識も目覚めさせる力がある気がする。
  
posted by Sachiko at 21:56 | Comment(0) |
2019年08月28日

夢の中の時間

「《まるい時間》を生きる女、《まっすぐな時間》を生きる男」(ジェイ・グリフィス著)という本を読んでいる。

この日本語版タイトルは見事で、テーマの本質を突いている。
原題は「PIP PIP」という。これは原子時計が秒を刻むピッピッという音のことらしい。

中に、子どもの時間についての記述がある。

「子供たちは“いま”という時間、野生の時間、永遠に対する天性の鋭敏な感覚に恵まれているため、おとなたちはそれを飼いならす必要がある」


昔、友達とこんな話をしたことがあった。
たまに、子どもの頃の友だちが夢に出てくることがあるが、夢の中の彼らは子どもの姿のままだ...
すると、こう訊かれた。
「で、自分は?」

え?自分はどうだろう。
「そういえば…自分はわからない」と答えた。
その夢の中で、私も昔の姿なのか、大人の私がそこにいるのか...

夢の中では時間が交錯している。
以前ある作家が、いまだに学生時代の試験で苦しんでいる夢を見ると言っていた。
そして、そこでは学生の自分と、すでに作家になっている自分がごっちゃになっていて、「大変だ、この試験落としたら、また小説書いて学費稼がなきゃ」と思っている...という話だった。

私もよく、出席時間が足りなくて単位がとれずこのままでは留年!という夢に悩まされたが、さすがに最近は見なくなった。

夢の時間はきっと、まるい時間だろう。
時間ではあるが、同時にすべての時間がそこに並んでいる空間でもあるように感じる。


著者はこう言う。
「…子供たちはつねにわれわれとともにあり、前産業革命時代のなかに生き、そのさまざまな果実のまじった時間、遠まわりの時間、遊び時間、タンポポの時間を生きているからだ。…子供たちは頑丈な多年草であり、それよりもっとはるかに価値があり、はるかに楽しいなにものか、遊びという革命の時間をしっかり守っているからだ。」

だがタンポポの時間を生きている子供たちは今も健在なのか、残念ながらわからない。この本の初版は1999年、前世紀だ
長時間学校に拘束されたあげく、さらに塾やら学童デイサービスやらに捕まって飼いならされていないか?

近年はますます、女性も子どももまっすぐな時間を生きるように強いられている気がする。まるでそれだけが正当な時間であるかのように。

本はまだ読みかけなので、今後また時間の話は続くと思う。
もちろんどちらか一方が正しいわけではない。円と直線が融合すると、聖なる螺旋形になる。
そのためには今、生き生きとしたまるい時間が息を吹き返さなければ。
  
posted by Sachiko at 22:27 | Comment(2) | 未分類
2019年08月26日

アナベル

アジサイの仲間のアナベル、夏に白い花を咲かせ、やがて花色が淡い緑色に変わる。

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よく見かけるアナベルのドライフラワーはこの時期に作るといいらしいのだが、私は毎年忘れてしまって、気がついたときには茶色く枯れている。

朝晩の空気が冷んやりとして、木々がうっすら色づきはじめ、赤トンボが飛び、道端にコスモスが咲いている。

以前ある人に、北海道ではアジサイとヒマワリとコスモスが同時に見られるのだと言ったら驚かれた。

↓これは隣家のアジサイ。枯れ色になりかけている中、まだこうして咲いているものもある。

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posted by Sachiko at 22:17 | Comment(2) |
2019年08月25日

木いちごの葉

「ムーミン谷の夏まつり」より。

スナフキンが24人の子どもたちを連れてボートで劇場へ向かう途中、いちばん大きな子がスナフキンにプレゼントを差し出した。

「これ、たばこ入れです。ぼくたち、みんなで、ししゅうしたの、こっそりと。」(それはフィリフヨンカの古い帽子のひとつだった)

「日曜日にすう、木いちごの葉っぱですよ!」と、いちばん小さな子が叫んだ。

スナフキンのライフスタイルに平日と日曜日の区別があるのかどうかわからないが、木いちごの葉っぱのたばこというのは、似たような話がどこかにあった。

マリア・グリーペの「夜のパパ」の中で、夜のパパ・ぺーテルは、たばこの代わりにコケモモの葉やミントの葉をパイプに詰めて吸っていた。北欧では一般的だったのだろうか。

ところで前回、スナフキンは子どもたちをほうり出してボートで去ったわけではなく、劇の舞台に出ていたムーミンママに、子どもたちの面倒をみてくれるように託したのだ。

「あの子たち、スナフキンがいなくて、さびしがるだろうなあ。」とムーミンが言った。

「たぶん、はじめのうちはね。でも、スナフキンは毎年、あの子どもたちに会いにいくし、みんなの誕生日には、手紙を書くつもりだって。絵のついた手紙をね。」とムーミンママは言った。

すべての出来事が収束していった晩、ムーミンがスナフキンにおやすみを言いに行くと、スナフキンは川原でパイプをくゆらせていた。

「いままでとちがうたばこを、すいはじめたの?ちょっと、きいちごみたいだね。それは、上等?」

「いや、だけど、日曜日だけはこれをすうんだ。」

24人の子どもたちの話はこれきり出てこないが、ふだんは人の世話などまっぴらで、親友のムーミンにさえ、旅立つ前に短い手紙を残していくだけのスナフキンに、手放した子どもたちの影が残っている。

こうして夏まつりのドタバタは、最後はムーミンが家に戻り、夏の夕刻の穏やかなしあわせ感を感じているところで終わる。

木いちごの葉(ラズベリーリーフ)はハーブとして薬効がある。
循環器系や消化器系にも効能があるが、主に女性のからだにやさしいハーブとして使われる。煙を吸った場合はどうなのかはわからない。
ベリー類は、見た目にも美しく北国の短い夏を彩る。

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posted by Sachiko at 22:54 | Comment(2) | ムーミン谷