2019年07月05日

「少年の日の思い出」

ヘルマン・ヘッセの短編「少年の日の思い出」は、日本で一番多く読まれている外国文学だそうだ。
もう70年以上も中学校の教科書に載り続けているからだ。

市内の中学校はみんな同じ教科書を使っていたはずなので、以前ある場所で尋ねてみたが、誰もこの作品を憶えている人はいなかった。私は大好きな作品だったのだけれど....

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私が惹かれたのは、物語そのもの以上に情景の美しさだった。物語の内容はかなり痛々しい...

子ども時代を思い出してまた蝶の蒐集を始めたという人が、彼の書斎にお客を迎えているところから始まる。物語のほとんどは、その友人の少年時代の回想話だ。

「…もうすっかり暗くなっているのに気づき、私はランプを取ってマッチをすった。すると、たちまち外の景色はやみに沈んでしまい、窓いっぱいに不透明な青い夜色に閉ざされてしまった。」

少し冷んやりしてきたであろう夏の夜の、青い空気の色、外の微風、葉擦れの音、野草の香り、ランプのほのかなオレンジ色の灯りなど、そこに描かれていないものも含めた光景が見えるような気がした。

お客である友人は、少年時代に熱心な蝶の蒐集家だったが、自分でその思い出をけがしてしまった....と言って、思い出を語り始めた。その夏の描写がまた美しい。

「…強くにおう乾いた荒野のやきつくような昼さがり、庭の中の涼しい朝、神秘的な森のはずれの夕方……

日なたの花にとまって、色のついた羽を呼吸とともにあげさげしているのを見つけると、捕える喜びに息もつまりそうになり、しだいにしのびよって、かがやいている色の斑点の一つ一つ、すきとおった羽の脈の一つ一つ、触覚の細いとび色の毛の一つ一つが見えてくると、その緊張と歓喜ときたら、なかった。」

そして彼はあるとき、そのあたりでは珍しい青いコムラサキを捕まえて展翅した。得意のあまり、それを隣の子どもにだけは見せようという気になった。

隣の少年エーミールについては、「…非の打ちどころがないという悪徳を持っていた。それは子どもとしては二倍も気味悪い性質だった」とある。結果、コムラサキの標本はこっぴどい批評にさらされてしまう。

二年後、エーミールがヤママユガをサナギからかえしたといううわさが広まった。本の挿絵でしか見たことのないその蝶をどうしても見たい、これが悲劇の始まりだった....


私は中学一年生の教科書をまだ持っているわけではなく、後になってこの短編が古いヘッセ全集に入っているのを見つけて手に入れたのだ。

物語の夏の情景は、自分の子ども時代と重なる。私は特に蝶の蒐集家ではなかったし、都会ではそう珍しい蝶も見られなかったが、網を持って昆虫を追うのは夏の遊びの定番だった。

男の子たちの中には、蝶の標本を作る道具のセットを持っている子もいた。展翅板や三角紙の中に収められたアゲハなどを見せてもらったのを憶えている。

当時12歳の私にとってこの短い物語は、去り行く子ども時代の情景を思い起こさせてくれるものであり、ヘルマン・ヘッセとドイツ文学に強く惹かれていくきっかけでもあった。

あとがきによれば、「少年の日の思い出」Jugendgedenken というタイトルは翻訳者がヘッセからもらった切り抜きについていたもので、最初に発表されたときの題は「ヤママユガ」Das Nachtpfauenauge だということだ。
  
  
posted by Sachiko at 21:41 | Comment(0) | ドイツ関連
2019年07月03日

木のディーバの衣裳

「NATURE BEINGS」(Margot Ruis著)から。

男性の木のディーバでも、長い衣服を着ていたり、長い髪が肩までかかっていたり、柔らかい波動をもっていたりするので、容易にはわかりにくいことがある。

女性の木のディーバはそれよりも認識しやすい。
とても長い髪や、髷や編み込みなどの髪型、細いウェストや広がったスカートといった女性らしい服など、細部で見分けられる。

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ギリシャ彫刻の流れるような衣の襞は、オーラの流れを表わしていると言われる。仏像の衣も同様だと思われる。

衣服というものは単に防寒や機能性だけでなく、魂の表現だ。現代ではかなり失われてしまったけれど、まだ女性の服にはいくらかその要素が残っている。

人間が地上で作り出したと思われているものの多くは、実は別の領域から持ってこられたものではないだろうか。
木のディーバのような、髷や三つ編みなどの髪型は世界中の民族にある。

この世的に見るとまったく実用的ではないと思われる装飾は、何かのための機能ではなく、何かであることの表現だ。
ビジネススーツは明らかに地上の発明品だが、花のようにふんわり広がったドレスなどは、元は妖精の衣裳に由来するのではないかと考えると楽しい。

それは、人間は地から生えたのではなく天から降りてきたのだということを思い起こさせる。
  
posted by Sachiko at 22:25 | Comment(2) | 妖精
2019年07月02日

木のディーバとジェンダー

「NATURE BEINGS」(Margot Ruis著)から。

木のディーバたちは人間に優しく、彼らに愛と感謝をもって近づく人間がいるとき、彼らは善良になり、幸せを感じる。
彼らに送る愛はまた私たちに返ってきて、互いに豊かなサイクルを築く。

木のディーバたちは男性または女性の姿であらわれ、若く、あるいは老成し、優しく、あるいは力強い。堂々と大きく、あるいは小さく繊細な姿をしている。

オーラに関していえば、男性と女性の木のディーバの違いはしばしば曖昧だ。大きく力強い女性のディーバがいるし、とても優しい男性のディーバもいる。

木のディーバが男性か女性かということが、人間世界においてほど重要とは言えない。分離し、分断し、判断したがる人間のマインドはここでは機能しない。

男性と女性は、両極に完全に分離しているのではなく、互いに浸透し、補完しあっている。
それは人間にもあてはまるが、残念ながらそれに気づいているのはごくわずかな人たちだ。

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人間の肉体は、(例外を除けば)男性か女性かの両極にはっきりと分かれているが、心魂的には、両極のあいだのどこかにいる。
100%女性の極、または100%男性の極ということはまずないだろうし、完全に真ん中ということもめったにないと思う。

たいていの場合は、自分の肉体の側の極から真ん中までのあいだのどこかにいるのだろうが、真ん中を超えて反対の極に近いこともあるだろう。

木のディーバの男性性と女性性が互いに浸透し、補完しあっているという表現は真実で美しい。
書かれているように、分離し、分断し、判断したがる人間のマインドは、ふたつの違う性質のものがあると、“どちらが”上か下か、良いか悪いか、優れているか劣っているかなどを決めずにはいられない。

「…陰と陽のすばらしい融合は、成熟した人格を特徴づける。彼らは性別から独立していて、一方の性が他方を支配するような考えは彼らの世界では異様に思える。」(本文より)

個別に分かれて見えるのは物質存在だけで、命や魂のオーラは虹のスペクトルのように、色が互いに混ざり合い、境界線のないグラデーションをなしている。

ジェンダーの見え方は、一般には、たとえばオークは男性的で、シラカバは女性的に感じられる。野バラやラズベリーなど、バラ科の低木は若い少女のようで、大きなヤナギは老人を連想する。

これらのイメージは単に人間の想像から生まれたものではなく、無意識のうちにそれぞれのディーバの姿を感じとっていたのかもしれなかった。
   
posted by Sachiko at 22:00 | Comment(2) | 妖精
2019年07月01日

キノコのその後

ヨハネ祭に現れたキノコは、かなり大きくなった後、虫に食われ、倒れ、乾いてこのような姿になった....

kinoko3.jpg

キノコの名前がわからない。裏側の襞が濃いこげ茶色だ。
ホワイトマッシュルームの中に、裏がこんな色をしているのがあるが、これはいったい何だろう。

家には、ざっくりした野外図鑑やキノコを特集したネイチャー系雑誌のほかには、まともなキノコ図鑑がないことに気がついた。

これの後に生えてきたキノコは先に消えてしまい、跡形もなくなった。
以前、木にこんな得体のしれないキノコが生えていたこともあるが、これもいつの間にか消えてしまった。

kinoko4.jpg

でも胞子が撒き散らされたり、菌糸が地中に残っていたりするだろう。
それらはまたいつか環境が整った時に、キノコの姿になって突如現れるかもしれない。
雨あがりを楽しみに待ってみよう。

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こんなキノコカードも...(^^ゞ

kinokocard.jpg
   
posted by Sachiko at 21:45 | Comment(2) | 自然