2019年07月31日

ディーバたちから見た死と苦しみ

「NATURE BEINGS」(Margot Ruis著)から。

自然霊たちは、生成と衰退という繰り返しのサイクルの中にいる。どちらも内在しているもので、彼らは判断を下さず、一方を好み他方を拒絶するということはない。

彼らは、彼らの任務として生命と生成に全面的に献身するが、死と衰退をも拒まない。それらが共にあってひとつであることを理解しているからだ。

人間だけがこう言う。「生成し成長するのは良いことだ。だが死は悪いものだ。」

避けられないことに逆らうこのような態度は苦しみをもたらす。現われたものはすべて再び消え去らなくてはならない。それがこの世界の法則だからだ。
彼らはその法則を知り、それを生きている。

彼らは執着せず生命の流れにゆだね、それが最終的には彼らを消滅に導くことを知っているが、彼らはそれを生命から切り離していないので、同じように受け入れる。分離して判断する人だけが苦しむのだ。

私たちは、生成と衰退という一体のものを、一見相容れない反対のものに見える生と死に分ける。
一方をを良いもの、他方を悪いものと見なし、一方を求め、他方は拒む。

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以前紹介したウルスラ・ブルクハルトの「カルリク」の中に似たような話があったのを思い出す。

「…萎れて枯れてゆくものの祭りもまた、楽しく祝われる。人間たちの秋の憂いは、ノームには奇妙に映る。彼らはどんなものも抵抗せず受け入れるからだ。
元素霊たちは、衰退の中に生成し、生成の中に衰退するもののように見える。」


「苦しみ」という名前の感情そのものはないのだと私は思う。
ディーバたちが言うように、人間はこの世界のあらゆる物事をいつも二つに分ける。

正邪、優劣、高低、多寡、明暗....
分かれた一方を良い、他方を悪いと呼び、自分は常に“良い”側にいたい。

そして「悪い」側のものが来るとそれを嫌い、戦い、排除しようとする。そのように何かに逆らうときの“抵抗感”が、苦しみと呼ばれるものになる。

秋に木が葉を落とす時、すでに春の新芽は用意されている。それらはひとつの輪の中にある。
木のことなら受け入れやすいが、人生に降りかかることとなると話は別だ!となるのが人間の度し難いところで、自然霊たちのように生きられれば、世界はまったく違って見えるだろう...
  
posted by Sachiko at 22:11 | Comment(2) | 妖精
2019年07月30日

水妖伝説・2

水の精に捕まって引きずり込まれたいような暑い日々、「ドイツ伝説集」から、水の精の伝説を幾つか拾ってみる。


水の精と農夫

水の精の外見は普通の人と変わらないが、歯をむき出すと緑色の歯が見えるところが違っている(※)。
水の精はある農夫と親しくしていて、ある時、下のほうにある自分の家に来るように誘った。水の底に着いてみると、飾り立てられた豪奢な宮殿があった。

ある小部屋にさかさに並んでいる壺を見て、農夫はこれは何かと訊くと、水の精は「溺れて死んだ者たちの魂です」と答えた。

その後農夫は水の精の留守をうかがって水底の邸に入り、壺を全部ひっくり返すと溺死者の霊魂が上のほうにゆらゆらと昇り、ついに水から出て救いを得た。

(※)女の水の精は美しいが、男は尖った緑色の歯をしている。それで女の水妖は美しい人間の漁師に恋して水の中に引き込もうとする、という伝説は各地にある。


水妖と粉屋の小僧

粉屋の小僧が二人、川のふちを歩いていた。ひとりが川を見ると、女の水妖が水の上に座って髪を梳いていた。小僧が鉄砲で狙いを定めた瞬間、女は川に飛び込んで、何かの合図をしたかと思うとそのまま消えた。先を歩いていた小僧は何も知らず、後から来た仲間から聞いて知った。それから三日のち、始めの小僧は水浴びしようと川に入って溺死した。


川への生贄

ライプツィヒの近郊、エルスター河がプライセ河に注ぐあたりの水流は油断がならない。河は毎年、人身御供を一人ずつ要求する。事実、夏になると決まって人が一人溺れ死ぬが、これは水妖が水底へ引き込むと信じられている。誰かが溺死する前には必ず水妖たちが水の上で踊るという。


エルベの乙女

乙女は普通の娘と変わらなく見えたが、白い前掛けの端がいつも濡れていて、水から上がってきたことを示していた。
肉屋の若者が乙女に恋をして、あるとき一緒に水の中へ入っていった。恋仲の二人に手を差し伸べる漁夫がいて、岸で見張りをしていた。

乙女は水に入る前に漁夫に言った。
「リンゴがのったお皿が水の底から上がってきたらうまくいった徴です。その他のものだったら駄目だったと思ってください。」

やがて水の底から一条の赤い光が射した。それは花婿が乙女の縁者のめがねに適わなくて殺されてしまった徴であった。


このような伝説の多くからは、かつて信じられ、語り伝えられ、畏れられていたものが持つ不思議な重みを感じる。
古い伝説やメルヒェンから受ける、深い独特の気分を表わす適切な言葉がみつからない。これもまた、現代では失われてしまった言葉なのかと思う。
  
posted by Sachiko at 21:34 | Comment(2) | 神話・伝説
2019年07月28日

水妖伝説

『NATURE BEINGS』の中でマルゴット・ルイスはこのように語っている。
「…私は水の精たちが大好きで、彼らからも愛されています。その一方で地の精の仲間は私をさほど惹きつけず、彼らのほうも私に向かって来ようとしません。
このことには価値判断はなく、どの存在を親密に感じるか、波動を受けとりやすいかどうかということです。」

ウルスラ・ブルクハルトは『カルリク』の中で、水の精の仲間については自分はほとんど知らない、カルリクは彼らと関係がないことが多いから...と言っていた。

どちらもドイツ語圏の人だが、人間と自然霊たちの関わりにおいても相性があるのは面白い。

ドイツ伝説集に出てくる自然霊たちの話では、地の精が一番多く、次いで水の精の話が多い。
ドイツの水妖伝説といえばローレライ伝説がよく知られている。ウルスラ・ブルクハルトの著書「Elementarwesen−Bild und Wirklichkeit(元素霊―イメージと現実)」の中で、ライン川の水の精について触れている個所があるが、これは伝説とは少し違う話だ。
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元素霊たちは、都市や汚染された川のそばにはもはや存在しない、ウンディーネたちはバーゼルあたりでライン川を去ってしまったと言われている。バーゼルの近くで起きた化学工場の事故のせいだ。

当時、ラインは10年経っても魚が住まない死んだ川になると言われたが、事故から7か月後に漁獲が確認された。
ラインはまだ水の精の存在を感じられるほど生気がある。

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元素霊たちは、汚染されたところには住めなくなる。それは化学物質のような汚染であり、もうひとつは、さらに深刻な人間の内的な汚染だと思われる。環境問題は、人間の内面の反映だ。

幾つかの水の精の伝説について書こうとしたのだが、話がずれてしまった。ひとつだけ触れておけば、オレガノは水の精から身を守ることのできる薬草だそうだ。
  
posted by Sachiko at 21:50 | Comment(0) | 妖精
2019年07月27日

カンパニュラ・ラプンクロイデス

春に、見覚えのない草が生えているのを見つけた。
何の変哲もない葉っぱに見える。どこかから種が飛んできた雑草だろう、抜いてしまおうか...と思ったが、花が咲くかもしれないので少し様子を見ることにした。

初夏になって花穂が上がってきた。やっぱり花が咲くらしい。
そしてある日、紫色の花が咲いていた。

rapun.jpg

カンパニュラの仲間だ。なかなか美しい♪
調べてみたら、カンパニュラ・ラプンクロイデス(和名:ハタザオギキョウ)という花で、大きな園芸店では苗を売っているところもあるようだ。

ヨーロッパ原産の帰化植物で、こぼれ種でも簡単に殖える、雑草と言っていいほどの繁殖力らしい。
どこから種が飛んできたのだろうと、ふと見ると、向かいの家にもこの花が咲いている。でも去年はなかったような...

カンパニュラは、八重咲や大輪の園芸種が多く出回っているが、これはいかにも野生種らしいすっきりとした風情だ。

それにしても、植物でも動物でも、外来種はなぜこんなに強いのだろう。放っておくとまたどこかに種が飛んでいって大繁殖するだろうか....

妖精は釣鐘型の花が好きなのだ。この小さな花の中にもいるかもしれないので、とりあえずこのまま咲かせておこう。
  
posted by Sachiko at 21:22 | Comment(0) |
2019年07月25日

モミの木のディーバ

「NATURE BEINGS」(Margot Ruis著)から。

森のエルフたちの任務は、森林生態系におけるすべての存在にバランスと調和をもたらし、動植物の健全な成長を促すことだ。

人間に邪魔されることのない森の中で彼らはくつろぐ。彼らは、喜んで彼らと近づこうとする人とは接触するが、騒がしいハイカーのグループは好まない。

木々の中にはすばらしいヒーラーがいる。木のディーバは問題がどこにあるかを見抜くことができ、最善を尽くして支援する。
その波動は時にはエネルギーワークの専門家以上に、微妙な内側にまで届く。

私は、自然を、ハイキングや登山やジョギングなどのための表面的なスポーツの道具とするだけでなく、私たちが繊細な感覚を通してもっと時間をかけて自然を体験することを求めているモミの木のディーバの言葉でこの章を終えたいと思う。

「人々は気が狂ってしまい、盲目的になって自然に負担をかけています。彼らはあちこち走り回って何を得ているのでしょう?

彼らはただ体を動かしている以外の何でもなく、周りにあるものを何も見ていないし、周りで生きているものたちに気づいてもいません。

最後に誰かが来て、あなたのように長く傍に座ったのがいつだったかを私はもう覚えていません。誰かが私たちの注意を惹くのはすばらしいことです。私たちは互いに与え合うことができるものがたくさんあるのです。」

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著者はさらにこのように語っている。
「山頂を目指すというような目的のためだけでなく、ただ森に入って、周りのすべてを五感で感じ、木のそばに座って時を過ごすように。出会いと愛情のこもった交流は、人間と木のディーバ双方にとって喜びであり、互いの生を豊かにする。」

人でも木でも、出会いというものは1対1で静かに起こるものだと私は思っている。集団で騒ぎながら何かに出会うということは考えられない。

木のディーバも、木や、森に生きているものたちに対し開かれてやってくる人間を歓迎するのだろう。
そこで出会うものは、意識を持たないただの物質の木として通り過ぎるときには見えない“誰か”だ。

木と、互いに“誰か”として出会うとき、人もまた一段深い“誰か”に引き上げられるに違いないと思う。
  
posted by Sachiko at 22:17 | Comment(0) | 妖精