2019年06月29日

草の歌

雑草と呼ばれ、次の瞬間には引き抜かれてしまう草の実の、すっと立つ姿の美しさ。

注目されることもなく、気に留められた時は、邪魔者扱いされて抜かれる時。

それでも草のエルフたちは、バラのエルフに劣らない喜びをもって、草の実をかたちづくっているにちがいない。

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フィンドホーンの創設者のひとり、ドロシー・マクレーンは、自然霊たちのために庭の一角に手つかずの場所を用意するようにと言っていた。

家の裏手の、そうした手つかず(ほったらかし...)の場所では、日当たりも悪くもちろん肥料もやっていないのに、雑草は繁り放題で、他の場所の倍近くも大きくなっている。

自然の森には誰も肥料も薬も撒いていない。一般には、そういう場所は堆積した腐葉土などがあって栄養豊富だからと言われるのだが...

「フィンドホーンの魔法」の中に、ビジネスとしての野菜工場などからは自然霊たちが引きあげていき、植物は虚弱化する、という話があった。
植物を育てるものは物質的な栄養だけでなく、宇宙の生命力そのものであり、それを司る自然霊たちのはたらきだ。

人が手入れしなくなった土地は、あっという間に雑草が丈高く覆い尽くす。この生命力!
雑草と呼ばれる存在は、地球自然界において、実は生命力の備蓄庫のような役割を果たしているのではないだろうか?などと思う。
  
posted by Sachiko at 21:13 | Comment(2) | 自然
2019年06月28日

続・妖精と人間の形姿

人間がまだ古い霊視能力の名残を持っていた時代の絵画では、神や天使の頭上に、また仏像の背後に、光輪が描かれている。当時の画家はそのような光を霊的に知覚することができたのだという。

人間の形姿については、シュタイナーによる、少々怖くもあるこんな話がある。
現在はまだ、悪人でもきれいな顔の人がいたり、怖そうな顔でも優しい人がいたりするが、未来においてはそのような矛盾はなくなり、外観はそのまま内面を表わすものになる...と。

ファンタジーの世界では、高貴なエルフは美しく、邪悪なゴブリンは醜い。これはシンプルなファンタジーの法則だ。

トールキンはこのように語る。
「…今では善そのものが、それにふさわしい美を奪われてしまっている、ということです。妖精の国では、まるで悪夢のように恐ろしい城を持っている鬼を思い描くことができます。(なぜなら、鬼の邪悪さが、その城を恐ろしいものに仕立てているのですから。)

しかし、よい目的のために建てられた家が――旅人のための宿屋やホテル、徳の高い高貴な王の館などが――吐き気をもよおすほど醜い、ということは想像できません。

ところが現代においては、そうでないものを見たい、というほうが無謀なことなのです。その建物が現代以前に建てられたものであれば別ですが。」(J.R.R.トールキン「ファンタジーの世界」)

現代において混乱しているのは建築だけではないが、私はこのようなイメージを持った。
たとえば川の水を底からかき混ぜて濁らせたものを器に入れる。しばらくは濁ったままだが、やがて小石や砂や泥はそれぞれ層を作って沈殿し、上には澄んだ水が現われる。
混乱はやがてそのようになっていくのではないかと思っている。

自然界の存在はありのままだ。
日に透ける広葉樹の葉から受ける印象と、針葉樹の葉から受ける印象は全く違うが、内的な耳を澄ますことができれば、そこから植物の内的な姿を読み取れる。
自然界の美しい「かたち」からは、矛盾のない内と外がつながった姿を見ることができる気がする。
   
posted by Sachiko at 22:24 | Comment(2) | 妖精
2019年06月27日

妖精と人間の形姿

以前「自然存在−忘れられた友だちからのメッセージ」という記事(2019.3.19)で紹介したマルゴット・ルイスの本を手に入れたいと思っていたのだが、今はKindle版しか出ていないようだった。

Kindleで読む気はしない。本というものは単に意味内容だけではなく、装丁、重さ、紙の質や手触り、匂い...書店で買ったのならその時の状況まで含めて本なのだ。(これは本だけでなく他のことにも言える。)

どうしても紙の本がほしいのであちこち探し、あきらめかけた頃、ドイツのアマゾンに英語版のハードカバーがあるのを見つけた。(ドイツ語版の中古本もあったが日本への発送は不可だった。)
残り少ないらしく、発送まで2〜3か月と書かれていた。

そして、注文から2か月半ほどかかって届いた。また読み切れない本が机の上に積み上げられていく...(-_-;
とりあえずまじめに最初から読みはじめたところ、いきなり驚くようなことが書かれていた。

「…妖精(エルフ)の姿は人間型として表現されるが、それでは馬の前に馬車を置くようなもの...」

つまり、エルフたちは人間よりもずっと前から地球にいて、この種の身体を地球に招き入れたのだ。だから、人間はエルフの形姿を持っている、あるいはそれを表わそうとしているのだ、と。

たしかに、先に存在したものが、あとから来たものの姿を写し取ったというのはおかしい。ドラえもんが猫型ロボットなのであって、猫がドラえもん型なのではない。ヾ(ーー;

人間が自分の姿を基準にして自然界のあらゆるものを擬人化したのだ、という考えもあるだろう。これは、長いあいだ神話などの解釈に使われてきた説だ。

被造物の中で、人間は最後に地上に降りた。地球の自然環境、木や花たちは、それよりも早く来て人間を待っていた....

妖精たちは物質の身体を持たないので、その姿と呼ばれるものは霊姿のことだ。天使の翼や妖精の翅は、オーラの表現だと言われているし、ウルスラ・ブルクハルトの「カルリク」の中では、ドワーフのとんがり帽子もオーラを表していると書かれている。

人間があらゆる存在を擬人化したのではなく、あらゆる存在の背後にある霊的な意図の完成形が、満を持して物質体をまとったものが人間だとしたら...?
こうしてまた、世界への別の見方の可能性が開けていく。

[NATURE BEINGS
ENCOUNTERS WITH FRIENDS OF HUMANITY]

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オマケ:
また別のキノコが♪

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posted by Sachiko at 21:38 | Comment(2) | 妖精
2019年06月25日

グリーン・ノウ屋敷その後

グリーン・ノウ物語第4巻「グリーン・ノウのお客さま」(ルーシー・M・ボストン)より。

ハンノー事件は終わってしまったけれど、この物語から去りがたいので、もうすこし長引かせてみたい。

オールドノウ夫人は、ピンを難民児童収容所のコンクリートの中へは帰さないことに決めたのだ。

「…あなたがいなくちゃあ、わたしはもうやっていけないと心から思うの。どうかしら?」

夏休みはまだたっぷり残っている。オールドノウ夫人は、アイダがここに来られるように、アイダの両親に手紙を書くことにした。

アイダがやってきて、今度はどんなことが起こったのか、このあとの話は書かれていない。
きっと、ハンノー事件とも去年の川の冒険とも違う、思いもよらない楽しいことが起きたに違いない。

グリーン・ノウ屋敷のモデルになったマナーハウスは、今はルーシー・M・ボストンの記念館になっていて、見学することができる。物語に登場する、イチイを刈り込んだトピアリーの並ぶ庭もそのままのようだ。

大勢の見物人がやって来て庭や家の中を歩き回るようすを、オールドノウ夫人(ルーシー・ボストン)は天国からどのように見ているのだろう。案外おもしろがっているかも知れない。

訪ねた人たちは、本の中に入り込んだような気分になるという。ここはテーマパークではなく本物なのだ。
その気になればグリーン・ノウを訪ねることができると、遠くからでも思えるのは楽しいことだ。

 マナーハウス
  ↓
http://www.greenknowe.co.uk
  
posted by Sachiko at 22:03 | Comment(0) | ルーシー・M・ボストン
2019年06月24日

ヨハネ祭のキノコ♪

今日はヨハネ祭。
昨日のイブには例年通り、庭の妖精たちへの贈り物を木の下に置いた。2、3日雨が続いたあとで、木の傍には白いキノコが1本生えていた。

妖精にキノコはつきものだ。明日写真を撮ろう....と思い、今朝見るとキノコは2本になっていた。

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昨日の時点では小さくて気がつかなかったのか、それとも一夜にして現われ成長したのだろうか?
たくさん生えてフェアリーリングのようになると楽しいのだけれど...♪

セントジョンズワートは、今年はちょうどヨハネ祭の朝に咲き、やっと夏の頂点にふさわしいお天気になった。
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〈DANCING ON THE MEADOW〉  https://fairyhillart.net

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posted by Sachiko at 21:32 | Comment(2) | 季節・行事