岩波文庫版では「柏槇(ビャクシン)の話」と訳されている。
この世的に読むと、怖いと言われるグリム童話の中でも特に怖い(>_<;)
なので、あえて解説を参照してみる。
まずはあらすじを...
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昔、長いこと子どもをほしがっている夫婦がいました。
ある冬、妻がビャクシンの木の下でりんごを剥いているときに指を切って、血が雪の上に落ちました。
「血のように赤い、雪のように白い子どもが一人あったら、どんなにうれしいことでしょうねえ」
やがて妻は、雪のように白く血のように赤い男の子を産んだあと、死んでしまいました。夫は妻をビャクシンの木の下に葬ってしばらく泣きましたが、やがて新しい妻を娶り、女の子が生まれました。
妻は男の子に、それはつらくあたるようになりました。
ある日妻は、男の子にりんごをあげると言って箱の蓋をあけ、男の子が身を屈めたとたんに蓋を閉めたので、男の子の首はりんごの中に落ちました。
妻は自分のせいではないことにするために、首を男の子の体の上にのせ、椅子に座らせて手にりんごを持たせると、娘のマリアに、兄の耳をぶつように言いました。
マリアが耳をぶつと、男の子の頭が転げ落ちました。
母親はマリアに「黙っているんだよ。もう取り返しがつかないんだから、兄ちゃんをスープにしよう」と言って、男の子のからだを刻むと、煮込んでスープにしました。
やがて帰ってきた父親には、息子は田舎の大伯父のところへ行ったと嘘をつきましたが、マリアはずっと泣いていました。
父親は「このごちそうはどうしてこんなにおいしいのかな、もっとくれ」と、骨はぜんぶ下へ捨てて、すっかり食べてしまいました。
マリアは骨を絹の布に包んでビャクシンの木の下に置くと、木の中から美しい鳥が飛び出し、歌いながらどこかへ飛んでいきました。骨はもうありませんでした。
鳥は、飾り職人の家の屋根で歌って、金の鎖をもらい、靴屋の屋根で歌って靴をもらい、粉ひき場のそばで歌って石臼をもらいました。
それから家のほうに行き、ビャクシンの木に止まって歌いました。
おかあさんが、ぼくをころした
おとうさんが、ぼくをたべた
いもうとのマリアが
ぼくのほねをみんなさがして
きぬのきれにつつんで
ビャクシンの木の下においた
キーウィット、キーウィット、なんときれいな鳥だろ、ぼくは
お父さんが外へ出て鳥をながめると、鳥は金鎖をお父さんの首に落としました。マリアが外に出ると、鳥は靴を落としました。
お母さんが外に出ると、鳥は石臼を投げ落としたので、お母さんはつぶされてしまいました。
その場所から靄や火が立ちのぼり、消えたと思うと、そこに男の子が立っていました。三人は大喜びで家に入ると、食卓にすわってごはんを食べました。
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なんともシュール....
でも、白い雪の上に落ちた赤い血、そのような子どもがほしい、というところなど「白雪姫」を思い起こさせる、やはりこれはメルヒェンなのだ。
首を切り落とすということには、古い秘儀では、頭による知覚や知性を排除するという意味があるという。すると人間は、心で考え始める。
頭の知性による文化を発達させる時代は、やがて行き詰る。
頭を切り落とすという犠牲ののち、感情や胸による思考が、未来につながっていく....
これもまた、未来を予見するようなメルヒェンに見える。
首をはねるというメルヒェンは他にも幾つかある。
シュナイダーは、大人が子どもに話して聞かせるときに実際に首をはねるところを想像してしまうと残酷なことになるが、そのメルヒェンの意味を理解したうえで静かに語るなら、子どもはその雰囲気から受け止めることができるという。
子どもに話して聞かせるメルヒェンとして、この「ネズの木」を選ぶことは、あまりないかもしれないが.....
posted by Sachiko at 21:53
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メルヒェン