2019年02月28日

「エミリー」

絵本「エミリー」(マイケル・ビダード文 バーバラ・クーニー絵)

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向かいの家に妹と住んでいる謎の女性、エミリー。
その人は20年近く家の外に出ず、知らない人に会おうとしない。

小さな「わたし」の一家が引っ越してきてまもないころ、玄関に手紙が入っていた。ブルーベルの押し花が入った手紙は、ママにピアノを弾いてほしいというお願いだった。

外に出ないその人について、町の人はいろいろなことを言うが、本当のことはわからない。いつも白い服を着ているその人は、詩を書いているそうだ。

ママがピアノを弾きに行く日、「わたし」もいっしょに行けることになった。女の人がドアを開けてくれて客間に通されたとき、白いものが階段を駆けあがっていくのが見えた。

ママが一曲弾き終わったとき、階段の上から小さな拍手が聞こえた。次の曲が始まったとき、「わたし」は部屋を抜け出し、階段をのぼっていくと、白い服の女の人がすわっていて、紙切れに何かを書いていた。
「それ、詩なの?」
「いいえ、詩はあなた。これは、詩になろうとしているだけ」

「わたし」は、ブルーベルのお礼に持ってきたユリの球根をその人の膝にのせた。
その人は紙にいそいで何かを書いて「わたし」にくれた。

春がきて「わたし」はユリの球根を植えながら、エミリーもおくりものの球根を地面に埋めているところを思い浮かべた。やがて真っ白いユリの花が咲くはず....


エミリー・ディキンソン(1830−1886)は生涯両親の家に住み続け、最後の25年間は屋敷の外へ出なかったと言われている。
作者マイケル・ビダードはこの話を書くためにエミリーの生家を訪れ、インスピレーションを得たという。

バーバラ・クーニーの絵による絵本は、以前「満月をまって」「にぐるまひいて」を紹介したことがあるが、古いアメリカを描いた作品にはこの絵がとても合っていると思う。
 
posted by Sachiko at 21:22 | Comment(2) | 絵本
2019年02月27日

物語の大鍋

この言葉は、トールキンのファンタジー論の中に出てくる。
「物語」がスープで、その物語の起源や素材が、スープのだしをとった骨だ、というような話だった。

「…物語の大鍋はいつも煮え立っています。そしてこの大鍋にはたえず材料が少しずつ――風味のいいものもあれば、よくないものもあるでしょうが――加えられているのです。」(本文より)

そして、実在した歴史上の人物がこの大鍋に入ってしまった例として、アーサー王が挙げられている。アーサー王は実在の王だったが、歴史上の実像はよくわかっていない。

「大鍋の中でアーサー王は、神話的世界や妖精国の住人である多くの諸先輩たちや、その世界につきもののさまざまな仕掛けと共に……長いこと煮つめられ、ついに妖精国の王として立ちあらわれたのです。」(本文より)

いったい何がどうなって、あの魅力的なアーサー王物語が生まれたのだろう。騎士ラーンスロットに王妃グィネヴィア、魔術師マーリン、モルガン・ル・フェ、聖剣エクスカリバー....思い起こしてもワクワクする。


私は以前から、歴史上の人物は、古い時代になるにつれて、しだいに物語中の人物のように見えてくると感じていた。遠い国の歴史ならなおのこと。

近代史や現代史はそのかぎりではない。大鍋に入れても風味のいいダシは出そうもなく、むしろ入れてはいけない素材が多すぎる。

そのことは、人類史の中で、現代という時代の性質の一面を表している気がする。
現代に蔓延している魂の飢えは、真正の物語スープを作ることも食べることもできないからではないのだろうか。
  
posted by Sachiko at 21:48 | Comment(2) | ファンタジー
2019年02月26日

お話の時間

昨日の劇の話から思い出したちいさなエピソードがある。
小学校1年生のときの担任は、中年の女の先生だった。

先生は時々、クラスの誰かを突然指名して、「Y子ちゃん、ここへ来てみんなに歌を歌ってちょうだい」などと、何かをやらせた。

このY子ちゃんが指名されたのは、なんと入学式当日で、教室の後ろには親たちも大勢いたが、Y子ちゃんは少し顔を赤らめながらもけなげに歌いきった。
何をさせるかはその子によって違い、側転だったり暗算だったりした。

私は二度ばかり「Sachikoちゃん、ここへ来てみんなにお話をしてちょうだい」と言われたことがある。
それで私は前に出て、手持ちのお話の中からひとつ選んで話した。

何の話だったかまだ憶えている。
ひとつは、触るものすべてが金に変わってしまうミダス王の話で、もうひとつは、タイトルは忘れてしまったが、三人姉妹の末娘が、継母から「穴のあいたスプーンで川の水を汲んでおいで」などと無理難題を出されるが、仙女だか天使だかによって助けられる話だった。

ずっと後になってふと思った。
先生は、私がお話の本をたくさん読んでいることを知っていたのだろうか。
知っていたとしても、読んでいることと、それを覚えていて話せるかということは別のことだ。

それでも、そのように突然指名されたとき、できなくて立往生した子はひとりもいなかったように記憶している。

この先生は専門が国語だったようで、先生自身も時々お話をしてくれた。
生身の人間が目の前にいて話すのと、録音されたものを聞くのとでは違う。

お話を語ったり聴いたりすることは、単に物語の筋書きを知的に知るのではなく、エーテルに満ちた空間を共有することなのだろうと思う。
 
posted by Sachiko at 22:23 | Comment(2) | 未分類
2019年02月25日

「ハメルンの笛吹き男」

この話はメルヒェンではなく伝説だ。
しかも、この出来事が起こったのは1284年6月26日と、日付まで記録に残っている。

この話には個人的な思い出がある。
小学校1年の時、クラスでこの劇をやることになった。演目を決めたのは先生だ。
ネズミや子どもたちが大勢出てきて、クラス全員を何かの役につけることができるのでこの話を選んだのだろうか。

全員出演するはずが...私には劇中の役がつかなかった。
先生は私をナレーターに指名したのだ。いわゆる前説、劇が始まる前に舞台に出て、これからどんな劇をやるのかを説明する役だった。

私はそういうキャラではなかったので、周りのお母さんたちも「あの子にそんなことができるの?」と思っていたようだが、幸い私はまだ幼くて、舞台の上でアガるほど自意識が発達していなかったのか、無事に役目を終えた。

当時はハメルンがどこにあるのか知らなかったけれど、遠い外国の不思議な雰囲気がとても気に入っていたのを憶えている。


私はハメルンには行ったことがない。今度はいつかドイツの北部を訪ねたいと思っていたが、その機会を作れなかった。
グリム兄弟生誕の地ハーナウから、ハメルンやブレーメンを含む、北へ向かう「メルヘン街道」は、「ロマンティック街道」同様、ドイツ観光局が作った観光ルートだが、きっと見どころは多いのだと思う。

ドイツの伝説の中で、世界中で一番知られている話がこれだろう。きっと、トールキン言うところの「ファンタジーの大鍋」に入ってしまったのだ。
「大鍋」の話はまた後日....
 
posted by Sachiko at 22:13 | Comment(2) | 神話・伝説・メルヒェン
2019年02月24日

「ネズの木」または「柏槇(ビャクシン)の話」

岩波文庫版では「柏槇(ビャクシン)の話」と訳されている。
この世的に読むと、怖いと言われるグリム童話の中でも特に怖い(>_<;)
なので、あえて解説を参照してみる。
まずはあらすじを...
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昔、長いこと子どもをほしがっている夫婦がいました。
ある冬、妻がビャクシンの木の下でりんごを剥いているときに指を切って、血が雪の上に落ちました。

「血のように赤い、雪のように白い子どもが一人あったら、どんなにうれしいことでしょうねえ」

やがて妻は、雪のように白く血のように赤い男の子を産んだあと、死んでしまいました。夫は妻をビャクシンの木の下に葬ってしばらく泣きましたが、やがて新しい妻を娶り、女の子が生まれました。
妻は男の子に、それはつらくあたるようになりました。

ある日妻は、男の子にりんごをあげると言って箱の蓋をあけ、男の子が身を屈めたとたんに蓋を閉めたので、男の子の首はりんごの中に落ちました。

妻は自分のせいではないことにするために、首を男の子の体の上にのせ、椅子に座らせて手にりんごを持たせると、娘のマリアに、兄の耳をぶつように言いました。
マリアが耳をぶつと、男の子の頭が転げ落ちました。

母親はマリアに「黙っているんだよ。もう取り返しがつかないんだから、兄ちゃんをスープにしよう」と言って、男の子のからだを刻むと、煮込んでスープにしました。
やがて帰ってきた父親には、息子は田舎の大伯父のところへ行ったと嘘をつきましたが、マリアはずっと泣いていました。

父親は「このごちそうはどうしてこんなにおいしいのかな、もっとくれ」と、骨はぜんぶ下へ捨てて、すっかり食べてしまいました。

マリアは骨を絹の布に包んでビャクシンの木の下に置くと、木の中から美しい鳥が飛び出し、歌いながらどこかへ飛んでいきました。骨はもうありませんでした。

鳥は、飾り職人の家の屋根で歌って、金の鎖をもらい、靴屋の屋根で歌って靴をもらい、粉ひき場のそばで歌って石臼をもらいました。
それから家のほうに行き、ビャクシンの木に止まって歌いました。

 おかあさんが、ぼくをころした
 おとうさんが、ぼくをたべた
 いもうとのマリアが
 ぼくのほねをみんなさがして
 きぬのきれにつつんで
 ビャクシンの木の下においた
 キーウィット、キーウィット、なんときれいな鳥だろ、ぼくは

お父さんが外へ出て鳥をながめると、鳥は金鎖をお父さんの首に落としました。マリアが外に出ると、鳥は靴を落としました。
お母さんが外に出ると、鳥は石臼を投げ落としたので、お母さんはつぶされてしまいました。

その場所から靄や火が立ちのぼり、消えたと思うと、そこに男の子が立っていました。三人は大喜びで家に入ると、食卓にすわってごはんを食べました。

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なんともシュール....
でも、白い雪の上に落ちた赤い血、そのような子どもがほしい、というところなど「白雪姫」を思い起こさせる、やはりこれはメルヒェンなのだ。

首を切り落とすということには、古い秘儀では、頭による知覚や知性を排除するという意味があるという。すると人間は、心で考え始める。

頭の知性による文化を発達させる時代は、やがて行き詰る。
頭を切り落とすという犠牲ののち、感情や胸による思考が、未来につながっていく....
これもまた、未来を予見するようなメルヒェンに見える。

首をはねるというメルヒェンは他にも幾つかある。
シュナイダーは、大人が子どもに話して聞かせるときに実際に首をはねるところを想像してしまうと残酷なことになるが、そのメルヒェンの意味を理解したうえで静かに語るなら、子どもはその雰囲気から受け止めることができるという。

子どもに話して聞かせるメルヒェンとして、この「ネズの木」を選ぶことは、あまりないかもしれないが.....
 
posted by Sachiko at 21:53 | Comment(2) | 神話・伝説・メルヒェン