1つめは、よく知られる芥川龍之介の「蜘蛛の糸」。
地獄に落ちたカンダタが、釈迦の慈悲によって1本の蜘蛛の糸を下ろされ、それにつかまって上がろうとするのだが、下から大勢の罪人たちが連なってくる。カンダタがこれは自分だけの糸だと叫んだとたん、糸が切れて落ちる。
2つめは、スウェーデンの作家セルマ・ラーゲルレーヴの「わが主とペトロ聖者」。
母親が地獄に落ちていることを嘆き悲しむペトロのために、主は天使をつかわし、天使はペトロの母親を抱えて天国に連れてこようとする。大勢の亡者が自分も救われようと母親にしがみついた。だが母親は亡者たちをひとりずつ身からもぎ離し、最後のひとりが落ちたとたん、天使は悲しげに母親を見下ろすと手を放し、落としてしまった。
3つめは、ミヒャエル・エンデの「鏡の中の鏡」から、迷宮の都市を脱出しようとする若者の話。
脱出には掟があった。「迷宮を去る者だけが幸福になれる。だが、幸福な者だけが迷宮から逃げ出せる」という逆説的なものだ。
脱出するには試験を受けなければならない。課題はひとりひとり異なり、何が自分の課題なのかを発見すること、それが課題なのだった。
若者は漁網だけを身にまとっていた。彼の幸福にあやかりたいと思う不幸な者たちがやってきて、持ち物を網に絡ませた。若者はそんなことで親切ができるならと、それらを次々と引きうけた。
網は重くなった。彼は自分の課題を理解したと思っていた。
海辺で、他の者たちが試験の合格を告げられている声が聞こえた。
彼は合格しなかった。
服従しないことが、彼の課題だったのだ.....
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「彼は自分の課題を理解したと思っていた。」
エンデのところには読者から「彼はあんなに親切にしたのになぜ試験に落ちたのですか」という質問が来たそうだ。
エンデは「あと10回読んでみてください」と答えたという。
私が「鏡の中の鏡」を最初に読んだのはずいぶん昔のことで、当時は…頭が痛くなった。とりあえず通常の読み方はできないのだということだけはわかった。その後も10回は読んでいない。
今も、この本は従来の悟性的な思考や、まして古い道徳律などとは別次元の物語だと思っている。たぶん、説明できる言葉はないし、説明しようとか解釈しようと思うと、道に迷うだろう。
夜明けのような、予感のような、未来の物語....
まだ生まれていない言葉によってなら語ることができるだろうか。でもそんな解釈すら要らないな、きっと...
posted by Sachiko at 21:08
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