「夜のパパ」より、夜のパパ、ぺーテルの言葉。
でもぺーテルという名前が読者に明かされるのは、続編の「夜のパパとユリアのひみつ」の中だ。
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…ぼくが学校の話をもちだすとしたら、それは子どもに対する一種のおつきあいからなのだ。そのくせ、単なるおつきあいから、子どもにぼくの仕事のことをあれこれきかれたら、ぼくはなんていうだろう?きっと「だまっててくれ」とどなるんじゃないかな。
子どもはぼくに対して、そんな態度をとらないのがふつうだろう。まったく子どもにとっちゃ不公平な話だ。
確かに私も子どもの頃、大人からこんなことを訊かれるのがいやだった。
「学校楽しい?」「いま何を習ってるの?」
こう訊いてくる大人が、私の学校生活などにまったく興味がないことは明らかだった。まさに、子どもに対する社交辞令なのだが、社交辞令には社交辞令で返すという術を、私はまだ身につけていなかった(いや、いまだに身につけていないかもしれない...)。
私は何と答えたのだろう。愛想のいい子どもではなかったから、黙ってうなずくか、短く「かけ算」などと単語一つで答えたのだったろうか。
そこに子どもがいるからといって、おつきあいで無理に話題を振らなくてもいいのだ...
ユリアが求めていたのは子どもにごまかしをしない誠実な大人だった。
たがいに石にまつわる思い出を話しあったとき、「パパにするならぜったいこの人だ」と思ったのだ。
ユリアの年齢は明らかではないけれど、推定4年生くらいだろうか。
いつかどこかでこんな話を聞いたことがある。
「12歳の少女の話に本気で耳を傾けることができるのが、ほんとうの紳士だ。」
2018年09月27日
夜のパパの言葉から
posted by Sachiko at 22:42
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