2018年09月30日

「夜のパパとユリアのひみつ」

「夜のパパ」の続編で、「夜のパパ」のときから2,3年経った頃の物語だ。前編は二人の静かな交流の話だったが、この続編では新しい登場人物も加わり、いろいろなことが大きく動いていく。

ユリアたちが住んでいる美しい古い建物が、市の再開発のために取り壊される計画があるらしい。
夜のパパも以前とは違い、講演をしたり新聞に載ったり、仕事も順調になっているようだ。

ユリアのママは、ユリアはもう大きくなったのだから夜のパパに来てもらう必要はないと思っている。〈みんな〉もそう思っていて、ママは〈みんな〉の思惑をとても気にしている。

が、夜のパパ、ぺーテル(この名前は続編で初めて明かされる)の部屋は相変わらず本にベッドを占領されたままだ。
そんな事情を知らない〈みんな〉は、へんなことだと思っているらしい。

ぺーテルは思う。〈みんな〉のために僕らが自分を変えることなどできやしない。僕とユリアはいっしょにいたいのだ。おたがいに必要なんだ。

ユリアは、ママと話し合えないようなまじめな話がしたいとき、ぺーテルはいい話し相手だと思っている。そして、世界中のみんなが、こんなふうに頼れる人間をもっていたらいいな、と思う。

ある日、ついに家の取り壊し決定の通知がきた。新しい住まいは用意してあるという。
二人は、あるアイデアを思いついた。この大きな家を、町のみんなが自由に使える場所にしたらどうだろう?だいじなのは、古い美しい家が壊されずにすむことなのだ。

二人は地域の人々に計画を話し、大勢の賛同を得て、取り壊しに来たブルドーザーの運転手までも味方につけた。駆けつけたお役所の人たちもうまく追い返した。
それで家が助かるかどうかはわからない。あとは祈るだけだ。

できるだけのことをした二人はその後、海辺へ行きしあわせな時間をすごした。これからどうなるかわからないけれど....


前編でユリアが本を書こうとしたのは、みんなが信じてくれない夜のパパの存在証明のためだった。お父さんとお母さんと子ども、というふつうの家族ばかりじゃない、ってことを知ってほしいと思ったのだ。

ユリアは今も思う。「〈生物学的〉なお父さんやお母さんは、子どもが大きくなったからもう必要ないなんてことにはならない。でも、べつのお父さんやお母さん、たとえば夜のパパなんかだと、子どもが大きくなればいらなくなるってことらしいわ!なんてへんな考え方でしょう!」

親子、兄妹など、みんながよく知る関係性に当てはまらないことで、〈みんな〉は落ちつかない気持ちになってしまう。
そんな〈みんな〉がめったに行きつけない「人間」どうしの信頼あるつながりという場所にたどりついた彼らはしあわせなのだ....
 
posted by Sachiko at 22:15 | Comment(2) | マリア・グリーペの作品
2018年09月29日

「くさはらのこびと」

古典中の古典絵本、エルンスト・クライドルフの「くさはらのこびと」(福音館書店)

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これは私が学生の頃、遠くに住んでいた友達が誕生日に送ってくれたものだ。
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大きな森の向こうの草はらに住んでいる小人たちのお話。

ある晴れた日曜日、みんなは車(馬車ならぬバッタ車)で、草はらのむこうに住んでいる親戚のところへ出かけることにしました。

むこうのみんなは、ちょうど結婚祝いをしているところにやってきたお客に大喜び。楽しいダンスが始まりました。年寄り小人たちはテーブルに集まって昔話を楽しみます。

家に帰ると問題が起こっていました。家のバッタがお隣の屋根を食い荒らし、お隣さんはかんかんになっていたのです。
双方の小人たちは、バッタに乗って騎士のように戦い始めます。

やがてお月さまが昇ってきて話しはじめました。そしてけんかをする者は見たくないと、雲に隠れてしまったのです。
小人たちは悲しく、恥ずかしくなり、仲直りをすることにしました。
するとまた、お月さまがにっこり笑って顔を出しました。

小人たちはバッタに乗って、いっしょに家に帰りました。ふたりが眠ると、美しい夢がやってきました....

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エルンスト・クライドルフは、1863年スイス生まれ。アルプスの花や虫を愛した人だったという。

この物語に出てくるのは、森と草はら、小人たちとバッタ、日の光、泉の水、ハープの音、さくらんぼとコケモモ、お月さま、香りのいい花、白い蛾、草の露、草屋根の家、美しい夢、そして、泉から流れ出す銀色の水で遊ぶちいさな天使たち.....

これだけのものがあれば幸せに暮らせそうな気がする、古い時代のやさしい物語♪
 
posted by Sachiko at 22:20 | Comment(2) | 絵本
2018年09月28日

スノーグースの実

スノーグースという名前のイングリッシュローズの実。
この実はオレンジ色どまりでこれ以上赤くはならない。

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イングリッシュローズというのは商標で、オールドローズとモダン系のバラを交配して作られたもので、比較的新しい。
他の草花ともよく調和し、丈夫で手入れが簡単なので、うちのバラはすべてイングリッシュローズだ。

スノーグースはオールドローズの特性が濃いツルバラだが、北国では雪が降る前に剪定しなければならず(雪で折れてしまうため)あまり蔓が長く伸びない。
八重咲で、白い小さめの花が咲く。実が美しくなる種類は意外に少ないのでこれは貴重なのだ。

もうひとつ、野イバラの実もうっすらと色づき始めている。
こちらは真っ赤に完熟するまで置いておく。収穫する頃には初雪が降っているかもしれない。

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「美しく小さな自然は数限りなくあります。
枯れ草、木の下に散らばったどんぐり、
餌を探す小鳥など...」(ターシャ・テューダー)

家の周りにも、探せば小さな自然はたくさんある。先日は鳥が運んできたのか、実を3つつけたナナカマドの小さな房が落ちていた。
季節を追って観察していけば、植物はどの時期にも美しい。
この実もそんな小さな自然のひとつだ。
 
posted by Sachiko at 21:13 | Comment(2) | 自然
2018年09月27日

夜のパパの言葉から

「夜のパパ」より、夜のパパ、ぺーテルの言葉。
でもぺーテルという名前が読者に明かされるのは、続編の「夜のパパとユリアのひみつ」の中だ。

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…ぼくが学校の話をもちだすとしたら、それは子どもに対する一種のおつきあいからなのだ。そのくせ、単なるおつきあいから、子どもにぼくの仕事のことをあれこれきかれたら、ぼくはなんていうだろう?きっと「だまっててくれ」とどなるんじゃないかな。
子どもはぼくに対して、そんな態度をとらないのがふつうだろう。まったく子どもにとっちゃ不公平な話だ。


確かに私も子どもの頃、大人からこんなことを訊かれるのがいやだった。

「学校楽しい?」「いま何を習ってるの?」

こう訊いてくる大人が、私の学校生活などにまったく興味がないことは明らかだった。まさに、子どもに対する社交辞令なのだが、社交辞令には社交辞令で返すという術を、私はまだ身につけていなかった(いや、いまだに身につけていないかもしれない...)。

私は何と答えたのだろう。愛想のいい子どもではなかったから、黙ってうなずくか、短く「かけ算」などと単語一つで答えたのだったろうか。
そこに子どもがいるからといって、おつきあいで無理に話題を振らなくてもいいのだ...

ユリアが求めていたのは子どもにごまかしをしない誠実な大人だった。
たがいに石にまつわる思い出を話しあったとき、「パパにするならぜったいこの人だ」と思ったのだ。
ユリアの年齢は明らかではないけれど、推定4年生くらいだろうか。

いつかどこかでこんな話を聞いたことがある。
「12歳の少女の話に本気で耳を傾けることができるのが、ほんとうの紳士だ。」
  
posted by Sachiko at 22:42 | Comment(2) | マリア・グリーペの作品
2018年09月26日

フウセンカズラ

フウセンカズラ、これも大好きな植物だ。

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白い小さな花が咲き、その後涼しげな薄緑色のサヤがぷっくりと風船のようにふくらんでくる。
完熟したサヤの中には、ハート模様のついた丸い種が3個入っている。この種もかわいい♪

発芽適温が高いらしく、今年は5月下旬に蒔いたけれど発芽せず、あきらめていたら忘れた頃にあちこちで芽を出していた。あわてて早蒔きしないほうがいいようだ。
ドライフラワーにしても趣きがあるので、刈り取って壁に飾ったりする。

それにしても植物の多様さは不思議で美しい。
植物のディーバたちは、根源からの喜びをもって個々の植物をデザインしているという。

フウセンカズラのディーバは、遊び心いっぱいで楽しみながらこの植物を創ったにちがいないと思う。
 
posted by Sachiko at 21:57 | Comment(2) | 自然