2018年08月31日

エチオピア王家の星

秋の星空はあまり明るい星がなく、いくらか寂しい。
誰もが知っているWの形をしたカシオペア座が高く昇ってくる季節だ。

カシオペアはエチオピア王妃の名で、ケフェウス王とのあいだに美しいアンドロメダ王女がいる。

ギリシャ神話では、カシオペアが娘のアンドロメダを、ネーレイド(海のニンフたち)よりも美しいと自慢したことから海神ポセイドンの怒りに触れ、アンドロメダは海の怪物への生贄として岩に縛りつけられる。
そこへメデューサを退治した英雄ペルセウスが通りかかり、怪物にメデューサの首を見せて石に変え、王女を救出する。

カシオペアは罰として椅子にくくりつけられたまま、休息が許されず、北極星の周りを回り続けているのだという。あのW型は、椅子に座った形なのだ。

このように、ギリシャ神話や旧約聖書にも出てくるほど、エチオピアの歴史は古い。
行ったことがないのでTVで見るかぎりだけれど、エチオピア人は男女とも顔立ちの美しい人が多い。歴史が古いので、アラブ系やヨーロッパ系などいろいろな血が混じっているのだろう。

アンドロメダ銀河は、唯一肉眼でも見ることのできる銀河だ(空の状態と視力がよければ)。
直径は銀河系の2倍以上あり、距離は約240万光年離れている。
これほど離れているものが肉眼で見えるのだから、いったいどれほど大きいのか。向こうの人も、こちらを見ているかな....

空気が澄んでいれば薄ぼんやりした星のように見えるのが全体だと思っていたら、あれは中心の一番明るい部分が見えているだけで、もし全体が見えたならかなりの大きさらしい(幅が満月5,6個分とか)。

クリスチャン・ラッセンの絵のように、大きなアンドロメダ銀河が浮かんでいるのが普通に見えたら、世界観が変わるかもしれない。

seiza.jpg
 
posted by Sachiko at 21:15 | Comment(2) | 宇宙
2018年08月30日

ミリアムとの別れ

「森の子ヒューゴ」から、ジョセフィーンとミリアムの印象的なエピソード。
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ミリアムのお母さんから、クラスみんなに、お別れパーティーの招待状が届いた。ミリアム親子は冬のあいだだけ村にいる予定だったのだ。
半年たつのに、ミリアムは友だちをつくろうとしなかった。ヒューゴしか…そして、もしかしたらジョセフィーンと。

ジョセフィーンには、ミリアムのことで困ったことがあった。
ミリアムの素敵な持ち物 ―帽子でもリボンでもブローチでも― を、うっかり「すてき」と言うと、ミリアムはそれらを「あげる」と、ジョセフィーンの手に残して走って行ってしまう。
ミリアムの持ち物をほめた子は大勢いるのに、もらったのはジョセフィーンだけだ。

ヒューゴは、パーティは苦手だから出ないという。
パーティが進んでみんなはおしゃべりに夢中になり、ミリアムがいなくなったことに気づかないようだ。ジョセフィーンは広い家の中を探しにいった。

大きな鏡のある部屋で、ジョセフィーンのこはくのペンダントが不思議な輝きを放っている。気づくと、ミリアムが横にたっていた。
ふたりはしばらく、互いの顔は見ずに、鏡に映った自分の姿をみつめていた。
ミリアムが尋ねた。

「それ、何でできてるの?」
「こはくよ」
「きれいね」

ジョセフィーンはペンダントをはずしてミリアムの首にかけた。
ふたりはほんの一瞬、鏡の中で見つめあっただけで、黙っていた。言葉にださなくても、心が通じたのだ。それで充分だった。


この鏡のシーンはすてきだ。言葉はとても少ないけれど、それだけに深い。ほんの一瞬で静かに満ちていく、ほんとうにこれで充分なのだ。

個人的に思い出すことがある。
学生の時、東京に住んでいた友達の部屋に泊めてもらった。夜中までいろいろ話しながら、彼女は紙に、ほんの少し重なりあった大きな円を2つ描いた。

「今の私たちは、ほんのこれくらい重なりあっているだけなのかもしれないね」
「そうだね」

彼女とはそれからしばらくして疎遠になってしまったけれど、ほんの小さな重なりを確かめあったあの一瞬に感じたつながりを、今も憶えている。
 
posted by Sachiko at 21:26 | Comment(2) | マリア・グリーペの作品
2018年08月29日

転入生ミリアム

「森の子ヒューゴ」から、新たな登場人物ミリアムのことなど。
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女の子たちのあいだでは、転入生のうわさで持ちきりだった。
お父さんが亡くなったために、この村に住むおばあさんの家に引っ越してきたらしい。

そのミリアムがやってきた日の休み時間、女の子たちがミリアムを取り囲むのを、ジョセフィーンは少し離れて見ていた。

黒い髪のミリアムは、きれいでかわいくてお金持ちで…女王様だ。みんなお付きの人になりたがっていた。けれどやがてミリアムを囲む輪は小さくなり、ミリアムはひとりぼっちになった。お付きの人など欲しくなかったのだ。

みんなは「あの子、お高くとまってる」「気取り屋だ」などと言い始めた。ジョセフィーンにはわけがわからない。あんなに素敵だとうわさされていた子が、たった1日でいやな子に変わってしまうなんて?
実はジョセフィーンにとってミリアムは、初日からなぜか心に住みついて離れない人になっていた。

ヒューゴとジョセフィーンは、あるきっかけでミリアムのお母さんから家に招かれた。
部屋にある水槽のそばで、ヒューゴとミリアムが話している。

「魚って、おとなしいのね」
「きみも、あまりしゃべらないんだね」
「鳥かごの中でさえずる小鳥がほしい人なら、魚はだまりこくってて悲しそうだと思うでしょうね…」
「魚が羽をはやすわけにもいかないね」
「うろこがあると、だめね」


この会話は、子ども同士の会話とは思えない。
そしてジョセフィーンも、ミリアムのことで自分にはわからない何かが、ヒューゴには伝わったと思うのだ。そして不意にさとった。ミリアムの心は子どもではないのだ、と。

転入生がやってくるという噂や、やってきたときにみんなが失礼なほどジロジロ見つめるなどの騒ぎに、ヒューゴとジョセフィーンだけが加わらなかった。

表面はまるで違っているけれど、ヒューゴとミリアムは、ある意味同類なのだ。そしてまだ不完全ながらジョセフィーンも。
1巻では就学前だったジョセフィーンは2年生になっている。巻ごとに、その違いははっきりわかる。

現実の子どもは、もっと子どもっぽく見えるかもしれない。それでも、本人すら気づかない内側では何が起こっているかわからない。そのような、子ども自身が自分で語ることができずにいることを、この物語は語ってくれている気がする。
 
posted by Sachiko at 20:49 | Comment(2) | マリア・グリーペの作品
2018年08月28日

永遠の昆虫少年

昨日NHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」で、昆虫写真家の栗林慧氏が紹介されていた。

栗林氏の昆虫写真集を、ずっと昔に見たことがある。
蝶の飛ぶ様子を調べようとしていて(いったい何のためだったのだろう...?)見つけたのだ。蝶やバッタ類が飛翔している一瞬を生き生きととらえた写真集だった。

現在79歳の栗林氏は、外見は年を経ても、昆虫少年のみずみずしいエネルギーはそのままに若々しい。今も崖のようなところを上り下りしたりして虫を追っているようだ。

そしてこんなことを言っていた。

「ある日昆虫を追って林に入り、そこでバタッと倒れてアリの餌になって死んだら本望だ」

なんと幸福な最期像だ(もちろん彼にとっての)。
生涯昆虫少年でいる意志と情熱を持ち続けられたことも幸福だ。
(さかなクンなども同族だな....)

ほんとうは誰でも自分の愛する世界を持ってきたはずなのに、いつの間にか見失って、誰かが作った「自分探し」などの言葉に振り回されてしまったり....

昆虫愛でも他の何かでも、こういう人々の持つ輝きは、見る人の魂の奥で疼く何かを刺激することだろう。熾火のようにか、かすかな呼び声のようにか、何らかの形で。

今回のTVはたまたま見たのだけれど、久しぶりに懐かしく思い出し、今も元気で昆虫を追っている姿が嬉しかった。
 
posted by Sachiko at 22:19 | Comment(2) | 未分類
2018年08月27日

「森の子ヒューゴ」

シリーズ第3巻の「森の子ヒューゴ」から、幾つかのエピソードを。
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また長いあいだ学校に来ていなかったヒューゴが突然現れた。
理由は、飼っている水グモの世話で忙しかったからというのだ。クモの世話は、5分のつもりがいつの間にか5時間も経っていたりして…

「クモに学校のきまりをおしつけて守らせようったってむりなんだよ」
「クモに守らせるつもりはありませんよ。でもヒューゴには守ってほしいんです」

へーえ、おれのやることをいちいち学校が決めるんだって?
ヒューゴは本気で驚く。

そうしてまた、ヒューゴはクラスのひとりひとりと握手し、あいさつ回りを始めた。久しぶりに学校に来たのだから当然そうするのだ。
先生はもう、止めてもむだだと知っていて、終わるまで黙って待っていてくれた。ヒューゴを相手にするにはコツがいる。

時間についての、こんな話もある。

「みなさん、時間はきちんと守りましょうね。ヒューゴもですよ」
「…時間を考え出したのは人間なんだから、人間がじょうずに時間を使って、仕事をやらせるようにしなくちゃな。自分がつくった時間のあとを、気ちがいみたいにおたおた追い回すことはないよ。そんなことをしてたら、なんにもできっこないや。ちがう?」

これには先生も降参しなくてはならなかった。

ヒューゴは毎度こんな調子だけれど、ただ好き勝手にしたい放題の子どもとは、はっきりと何かが違う。その違いは何か…

それは「自分自身の主人である(あろうとしている)」ということだろうか、と思う。
この「自分自身の主人である」という言葉は、マリア・グリーペの他の作品の中では重要なキーワードになっている。(『忘れ川をこえた子どもたち』というファンタジー。これはまたいつか別の機会に)

「自分自身の主人である」
普通の人間にとって、ここに到達するのは長い旅だ。そして一般の教育はここを目指してはいないらしい。
不登校になったり、大人の都合で、なくてもいいような病名をつけられてしまった子どもたちの中には、少なからず輝くヒューゴがいるだろう。

物語はさらに進展する。
ヒューゴが学校に来なかったのはクモのせいだけではないらしいことがわかったのだ。

「かあさんは死んだよ。けど、それはおれだけの問題なんだ。」

おかあさんは天国で幸せに暮らしている、と先生は言った。

「どっちの考えがすてきなんだか、わかんないな。空は地球とちがう――すこしの人しか入れないとくべつの所だって考えるのと、地球も空に浮かんでて、太陽や月や星たちといっしょなんだって考えるのと……。みんな、おなじひとつの世界にいる――そう思ってたほうがいいみたいだなあ。」
 
posted by Sachiko at 21:30 | Comment(2) | マリア・グリーペの作品