あるとき、こんな話をしたことがある。
田んぼの中の藁ぶき屋根の家と庭先の柿の木など、日本人の原風景と言われている景色は、むしろ異国的に感じる...と。
そう言った人は日高の馬牧場で育ち、私も、米も獲れない酪農地帯の生まれだ(育ったのは別の所)。
真っ平らな牧草地と赤い屋根のサイロ、白樺林、真っ白な雪原....こういうのが原風景だよね、という話だった。
日本人の心のふるさとと言われる京都や奈良は、北海道人にとっては外国に感じると言った人もいた。
たしかに....感覚としてそうなのだ。富士山などもそうだ。
先祖(といってもそう遠い先祖ではないのだが)が津軽海峡を渡ったときから、向こう側の文化とはどこか切り離されてしまったような、もう自分のものとは言えないような、そんな感覚がある。これが移民というものか.....
アイヌ文化を自分のもののように思いたかったりするのも、この文化的な寄るべなさから来ているのだろうか。
きっと「響き」というものも関係しているのだろう。幼いころ耳にした、チャランケチャシとか、ペンケトー、パンケトー(母はまとめてペンケパンケと言っていた)など、土地の名の中に残照のように響く音。
そんな個人的思いはともかく、アイヌ文化は絶やしてはいけない。アイヌ文化がなければ、北海道はただの辺境の地だった。
すべていのちあるものとつながる豊かな知恵の土壌は、まさに今必要とされているものだ。
2018年07月30日
原風景
posted by Sachiko at 22:16
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