長いあいだ、ファンタジーは子ども向けのもの、という認識が根強かった。アダルトファンタジーという分野の出現や、興業的に成功した映画のおかげで、いくらかは弱まったかもしれない。
実際はすべての子どもがファンタジーを好むわけではなく、あのJ・R・R・トールキンも、ファンタジーを好んで読む子どもはむしろ少数派だと言っていた。
たしかに子供の頃、鬼ごっこやスポーツ系の遊びなど、ルールの決まった遊びが好きな子どもと、自由な想像(創造)遊びが好きな子どもがいた(だいたい後者は少数派だった...)。
学生のとき、友達に「子どもの頃一番好きだった本はなに?」と訊いたところ、「バレーボールの本」と言われてガックリしたことがある。
そして、子どもの頃ファンタジーを楽しんだ人も、大人になる前にそこから「卒業」する場合も多い。
一方、大人になっても変わらずにどころか、ますます深く入り込む人、また稀に、大人になってからこの魔界(笑)に迷い込む人もいる。
実は私が深入りしたのはかなり大人になってからだった。子どもの頃読んだ本格ファンタジーは、ジョージ・マクドナルドの1冊だけだったのだ。(キャロルの「不思議の国のアリス」は夢オチなのでファンタジーではない、という説を採用すれば。)
「ナルニア国物語」を初めて読んだのは高校生の時で、友達の友達が学校に持ってきていたのをたまたま借りることができた。
貸してくれた人は、小学生のときに買ってもらったと言っていて、うらやましかった。私は存在も知らなかった!でもこれもタイミングだったのだと思う。
昔友人が、指輪物語やゲド戦記、はてしない物語などについて、「こういうことを通常の大人の本で言おうとすると、分厚い本が何冊にもなってしまうよね」と言った。
ファンタジーは、通常とは違うイメージ言語で書かれている。
イメージ言語を難なく読む力については説明しがたいが、ミヒャエル・エンデは、「人間の根源的な言語はイメージ言語だ。イメージは概念よりもずっと多くのことを語る」と言っている。子どもは本来、まだ根源に近いところにいるはずだ。それを概念言語で説明しようとすると、それは大部な本になってしまうだろう。
ファンタジーは逃避的で現実的でないという人々に対するトールキンの反論は、見事!と思う。
「自動車がたとえば馬よりも『現実的』である、というのは、かなしいほどばかげた考えです。一本のニレの木とくらべてみて、工場の煙突がどれほど現実的で、思わず目をみはるほど生き生きとしている、というのでしょうか。木はしょせん時代遅れの代物、逃避する者の空疎なはかない夢だとでもいうのでしょうか」
(トールキン「ファンタジーの世界」より)
2018年07月20日
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posted by Sachiko at 21:31
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