2018年07月05日

ある森の話

もう10年以上も前のこと、友人に誘われて、とある森の中へ行ったことがある。
電気もない手造りの小屋に泊まり、川の水を汲み(エキノコックス要注意、60度以上に加熱すればOK.一応飲料水用の井戸もあった)、キノコを採り、薪の火で料理をした。

森の中は、風による葉ずれの音と、鳥たちの声と、川の流れる音だけ。
こういう音は、いつまでも聴いていられる音だ。倒木に生えているテングタケの姿があやしくも可愛い。

そして、夜の闇。電気のない小屋は真っ暗で、これほど完全な闇というものを初めて体験した。
悲鳴を上げたくなった。肉体があるという感覚がなくなってしまったのだ。とりあえず意識はあるが、その意識の依りどころがないような....

外は、星あかりの分だけ僅かに明るく、都会では見られない天の川を久しぶりに見た。アンドロメダ星雲が見える季節だった。
懐中電灯を消すとほぼ真っ暗だが、やがてこの闇が妙に快感になった。

これよりも更に昔、ニセコ山渓の渓流水を飲んだことがあった。あの冷たく澄んだ雪解け水ほどおいしい水を飲んだことはなかったし、これからもないだろう。
あの頃はエキノコックスのことなど気にしなかった。
多くの天然水をうたった水がペットボトルに入って売られているけれど、まったく比較にもならない。
水というものがこれほどおいしいのか!と驚くほどの味だった。

森の話に戻る。
結局一番の問題はシャンプーだった。五右衛門風呂では髪は洗えず、薪を燃やす煙は容赦なく髪にまとわりつく。ドライシャンプーを持っていくべきだった。
帰り際に話した。「私たちって...つくづく文明人だよね」

これらすべては、五感に強く働きかけるものだった。森の中では、感覚が鋭くなる。
風の音、水の音、森の湿った匂い、冷んやりとした空気、薪のはぜる音....
それらは、都会での、表面を薄く撫でては消えていくような日々の体験と違って、体が目覚めてよみがえる、文字どおり「体験」として感じられた。
だから、長い時間が経った今も、体の内部からその感覚を呼び起こすことができる。やはり体は「自然」を必要としているのだ...

一緒に行った友人は、それから数年後に地上を去った。最後まで森のことを話し、森に思いを馳せていた。
 
posted by Sachiko at 22:05 | Comment(2) | 自然