2018年07月31日

クジャクチョウ

昔からよく見かけるありふれた蝶だと思っていたら、本州では山地や高地に生息し、関西以西では生息していないという。北国の蝶だったのだ。
写真を撮れなかったので、フリーフォトから拝借。

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成虫で越冬するそうだけれど、いったいどうやって氷点下の風雪に耐えているのだろう。

ムーミンの物語にこんな一節がある。

「その年最初に見たチョウが黄色いチョウならすばらしい夏になるし、白いチョウならまあまあの夏。茶色や黒のチョウのことは言いっこなし、そんなの悲しすぎますもの...」(ムーミン谷の名言集より)

たいてい、春一番に見かけるのはモンシロチョウだ。
が、今年は、なんとこのクジャクチョウだった。表が茶色で、裏が黒....うーん...
悲しすぎるのはこの夏の暑さだろうか...今日は33.9度(-.-;
  
posted by Sachiko at 21:09 | Comment(2) | 自然
2018年07月30日

原風景

あるとき、こんな話をしたことがある。

田んぼの中の藁ぶき屋根の家と庭先の柿の木など、日本人の原風景と言われている景色は、むしろ異国的に感じる...と。

そう言った人は日高の馬牧場で育ち、私も、米も獲れない酪農地帯の生まれだ(育ったのは別の所)。

真っ平らな牧草地と赤い屋根のサイロ、白樺林、真っ白な雪原....こういうのが原風景だよね、という話だった。

日本人の心のふるさとと言われる京都や奈良は、北海道人にとっては外国に感じると言った人もいた。
たしかに....感覚としてそうなのだ。富士山などもそうだ。

先祖(といってもそう遠い先祖ではないのだが)が津軽海峡を渡ったときから、向こう側の文化とはどこか切り離されてしまったような、もう自分のものとは言えないような、そんな感覚がある。これが移民というものか.....

アイヌ文化を自分のもののように思いたかったりするのも、この文化的な寄るべなさから来ているのだろうか。
きっと「響き」というものも関係しているのだろう。幼いころ耳にした、チャランケチャシとか、ペンケトー、パンケトー(母はまとめてペンケパンケと言っていた)など、土地の名の中に残照のように響く音。

そんな個人的思いはともかく、アイヌ文化は絶やしてはいけない。アイヌ文化がなければ、北海道はただの辺境の地だった。
すべていのちあるものとつながる豊かな知恵の土壌は、まさに今必要とされているものだ。
  
posted by Sachiko at 22:16 | Comment(2) | 北海道
2018年07月29日

沈黙を聴く

「もしも言葉に沈黙の背景がなければ、言葉は深さを失ってしまうであろう」
マックス・ピカート「沈黙の世界」より。

時々、これを読み返す。70年も前に書かれたと思えないほど(日本語版は1964年刊)、まさに現代、危急に必要とされる名著だと思う。

ここで言われている沈黙とは、単に言葉が語られていない状態ではなく、それ自体が始原の現象として“存在”するものだ。

ー言葉と沈黙とは密接不離の一体をなすものだー

密接不離----昨日触れた、見えるものと見えないもの、“色”と“空”のように。

花も、木も、ひとも、あらゆる存在は、沈黙をまとうことで、尊厳あるそれ自身を立ちあげる。

たとえば1本の草のまわりに沈黙を聴く。するとそれは、ちいさな草であることを超えた、宇宙的な姿を開示してくれる。

できるなら、あらゆる事物をそのように見られたらと思う。いつもそうできるわけではないけれど。

現代の言葉をピカートは「騒音語」と呼んだ。
精神の行為によって沈黙から生まれるのではなく、喧噪から生まれて喧噪の中に消えていく。

「言葉はもはや精神として存在しているのではなく、単なる騒音として存在しているに過ぎない。これは精神の物質への転換である。」(本文より)

騒音語の海から、生きた実在としての言葉を救い出すことがますます困難な時代は、ピカートの憂慮をはるかに超えてしまった。

ピカートが「ひとつの世界が騒音語の上に打ち立てられた」と言ったのは、まだラジオの世界だったのだ(現代のインターネット語などを見たら、彼はどう思うだろう)。

「沈黙を創れ」という言葉で本は終わっている。
沈黙を創る場は、自分自身の内・・・そこには、何ものも損なうことのできない源につながる場所があると信じて。
 
posted by Sachiko at 22:00 | Comment(2) | 言の葉
2018年07月28日

見えない光

「“光そのもの”は、目に見えない。」
一瞬、え?と思ったが、言われてみればそうだ。

月は太陽の光を反射して輝く。もし光そのものが見えるなら、太陽から月までのあいだにある光が見えるはずだ。が、あいだの宇宙空間は真っ暗で、月がいきなり輝いているように見える。

地球の昼間が明るいのは、空気や水蒸気や塵があるからだ。
つまり光は何か物質に反射されなければ見えないのだ。逆に、物質は、光を反射しなければ見えない。

光は、物質を見えるようにする。
物質は、光を見えるようにする。
一方だけでは、どちらも見えない.....

だとすれば、暗黒と言われている宇宙空間は、ほんとうは光に満ち満ちているのだ。あんなにたくさんの星があって、その光は地球に届いているのだから。

このところ、惑星の並びや月食や、宇宙の動きが意味ありげだ。
見えないものによって、見えるものは在り、見えるものによって、見えないものも見える。
こんなことを考えていると、なんだか目がまわりそうになるけれど....

色 即 是 空  空 即 是 色 ♪
 
posted by Sachiko at 21:31 | Comment(2) | 宇宙
2018年07月27日

「グリーン・ノウの川」

グリーン・ノウ物語の中でも、私が特にお気に入りなのが第3巻「グリーン・ノウの川」だ。

オールドノウ夫人が旅行で屋敷を留守にした夏、ここを借りたのはビギン博士とミス・シビラという二人の婦人だった。
ビギン博士は、夏休みに難民の子どもたちを屋敷に招待することを思いつき、ハンガリー難民のオスカーと、ビルマで難民になった後イギリスにやってきた中国人の少年ピン、そして博士の姪の娘アイダがここですばらしい夏休みを過ごす。

この本の初版は1959年、ハンガリー動乱のあとだ。父親を殺されたオスカーの言葉が心に響く。

「考えというものは、鉄砲でも撃ち殺せないものだ。お父さんはそう言ったためにロシア人に撃ち殺されてしまった。でもお父さんのその考えは、撃ち殺されていないんだ。だって今、ぼくがその考えを受けついで、考えているんだもの」

これといった大きな物語の展開があるわけではないが、川辺の動植物の多様な姿、川で聞こえるたくさんの音、それらを全身で味わう子どもたちの感性.....

ほんのちいさな、けれど美しい情景と言葉たち。
木の枝から糸を引きながら降りてきたクモが、カヌーの舳先に糸をくっつけて戻っていったとき、ピンが言った。
「ぼくたち、つながれちゃったよ」

夏休みまっさかりになり、モーターボートや騒がしい人々によって、川は神秘的なところではなくなってしまう。
…川はあたりまえの場所―人間の遊び場になってしまった。川をほんとうのすまいにしている生きものたちは、みんな身をひそめてしまった。ほんとうのいのちはなくなって、水泳プールかお祭り場にすぎなくなってしまった…(本文より)

子どもたちは、人々がやってこない夜明け前に出かけることにする。そして、多くの変わった存在に出会い、しだいに物語は不思議な様相になっていく。

川の中の人目につかない島に住む世捨て人、別の島では、飛ぶ馬、太古の魔法、最後の巨人.....(ビギン博士は巨人の研究をしている)

騒がしい夏の客を避けて、ある日子どもたちは支流の奥の静かな池に着いた。鏡のような水には、すべてのものが逆さまに映る。水にもぐってはまた上がり、三人だけのすてきな日。
…池は、心の中のいちばんないしょの考えと同じくらいに、彼らだけのものだった…(本文より)
この日のことはずっと後まで、アイダが見るいちばんすてきな夢になった。

物語を通して煌めく、生き生きとした「不思議」の存在。
いかにも不思議なものごとだけではなく、川の情景や花などの現実のもの、そして子どもたち自身も、大きな「不思議」の一部を織りなしているのだった。

「グリーン・ノウの川」について、語り足りない細部については、またいつか別の日に。
 
posted by Sachiko at 21:18 | Comment(2) | ルーシー・M・ボストン