2020年08月05日

ふたつの力・3

若くして高みに達し、早々に世を去ってしまった天才たちがいた。
ノヴァーリス29歳、モーツァルト35歳、ラファエロ37歳....

こういう人々は、その創造の力を青春の力から汲んで来たのだという。そしてそのことが、肉体の死を早めることになったのだ。

一方、人生の後半から輝きを増す場合もある。
例えばフランシスコ・デ・ゴヤは、40歳を過ぎてから画家としての地位を確立し、当時としてはかなり長命の、82歳の最晩年に至るまで精力的に創作を続けた。

こういう人々は、創造の力を死の力の中から汲むのだという。そしてこの二つは全く別のことなのだ、と。

これは不思議なパラドックスのようだ。
青春から汲まれた創造の力は早い死をもたらし、死から汲まれた創造の力は晩年まで力強い。

ゴヤ最晩年の作で、絶筆と言われている「ミルク売りの娘」。

milk.jpg

かなりおどろおどろしい絵を多く描いたゴヤは、個人的には特に好きな画家ではなかったけれど、最後に描かれた、青春が匂い立つようなバラ色の頬をした少女の姿は、胸に沁みるものがある。


ところで女性の更年期というのは、それまで出産に備えて保たれていた宇宙的な力が解放されて、今度は創造の力に変容させて使えるようになる時期なのだそうだ。

それは可能性であり、どう使うかあるいは使わないのかは、個人に委ねられている。これはやはり使った方がいい。

「私の若さの源泉は、想像力。みなさんも、想像力を枯らさないで!」(by ターシャ・テューダー)
  
posted by Sachiko at 21:47 | Comment(0) | 未分類
2020年08月03日

飛ぶ馬の島

グリーン・ノウ物語第3巻「グリーン・ノウの川」より。

朝食前にたっぷり探検をした子どもたちは、暑い昼間、土手で眠り込んだ。午後には、休みで遊びに来た人々が川に群がり、モーターボートも走り回っていた。

グリーン・ノウでは、その人に応じた出来事が起こる。
川で起こる不思議なことは、この三人の子どもたちにだけ明かされる秘密のようだ。

アイダはピンとオスカーに、今日は昼間たっぷり眠ったので、一晩中外に出てみることを提案した。

「家の向かい側の大きな島で、一晩すごしましょうよ。」

島には「上陸禁止」の立て札がたくさん立っていたらしいが、彼らはそんなことは気にしなかった。


禁止立て札を無視したり夜中に抜け出して遊びに行ったり、今どきの頭の固い大人たちは、この物語自体にクレームをつけるかもしれないとふと思ったが、そういう人々がこの物語を読むことはないだろう。

グリーン・ノウの川が、騒がしく夏の遊びに興じる人々にとってはごく普通の川で、その静かな魔法のはたらきをけっして見ることはないように。


おやつの時間、子どもたちは夜に備えて、ビスケットや菓子パンをポケットにすべりこませた。
そして夜中にそっと家を抜け出し、島の土手にすわって耳を澄ませた。何かが近づいてくる足音がした....

「馬よ!何百ぴきも!」

子どもたちは馬のほうへ進んで行ったが、どうしても近づくことができなかった。

「そのうち、水を飲みにくると思うよ。魔法の言葉でもあればいいんだけどな。」オスカーが言った。

「だまって!ぼくはいま、川の音に耳をすまして、魔法をかけてるんだ」ピンが言った。

アイダははっとして息をのんだ。・・・馬の背の上でなにかがばたばた動き、一瞬、空の一部を見えなくしたのだ・・・

「ピン!なんの魔法をかけたの?馬に羽が生えてるわ。」

「ぼくは川に、魔法のことばを与えてくださいってたのんだんだ。そしたら川は、なんどもなんども答えてくれた。
それはぼくの名前なんだ。HSUなんだ。ああ、HSU。HSU。」


HSU(スー)というのは、ピンの本名だ。
英語では発音しにくいため、ピンというニックネームで呼ばれることになった。
今はもう彼をほんとうの名前で呼ぶ人はいない。彼自身の他には。

このあと、馬の群れは子どもたちを仲間にしてくれた。
闇が薄らぎ、馬たちが飛び立っていったあと、彼らは家に帰ってベッドに入り、いつもの朝食の時間に目をさました。

子どもたちは大きな紙に、これまで探検した場所を書き込んでいたのだが、ピンはそこに中国の文字でこう書いた。

「飛馬島」

川が与えた魔法の言葉がピンのほんとうの名前だったように、文字もまた、彼のほんとうの言葉で書かれる必要があったのだ。
   
posted by Sachiko at 22:37 | Comment(2) | ルーシー・M・ボストン
2020年08月01日

“ひとり”は悪か?・2

「己の影を抱きしめて」(清水真砂子インタビューより)

前回、ひとりでいることはいけないことだと思い込まされている学生たちの話を書いた。
ではどんな力が、なぜ、そう思い込ませているのだろう。

何かで読んだ、恐怖政治のコミュニティの物語があった。
恐怖政治というと、常に背中に銃を突きつけられているようなイメージが浮かんだが、そうではなかった。


そのコミュニティでは、すべてが十分にある。
衣食住は満たされ、仕事もある。
ただし、仕事はひとりで行なってはならず、必ず二人以上でなければならない。

夕食後にはレクリエーションの時間があり、そこでもあらゆる娯楽設備が用意されている。
このレクリエーションには、“必ず”参加しなければならない。
つまり、常に誰かに監視されていて、けっして人をひとりにしておかない....


「人はひとりでいる時が一番賢い」と言ったのは誰だったか。
集団、群衆、衆愚...と、大勢の塊(mass)になるほど愚かになる、と。

このことにも二面性がある。
人が集まることが難しくなった昨今の世界的騒動は、人を分断する力に見える。
同時に、ひとりでいる機会が増えて、自分の内側を見つめることが多くなったという人々もいる。

孤立ではない、ひとりの在り方。
群衆ではない、人々のつながり方。

ひとりひとりの内なる深みに在る「私であるもの」。
『ゲド戦記』は、他の多くのファンタジー作品とは違い、外的な善玉と悪玉の闘いではなく、自分自身の影を統合して真の英雄になる物語だ。

清水さんが「とにかくひとりでいる時間をたっぷりと持ちなさい」と言ったのは、そういうことなのだと思う。
ひとりの深みで、自分自身と世界の真の姿に向かう。
自由な人間を怖れる得体の知れない輩に力を与えないためにも。
   
posted by Sachiko at 22:06 | Comment(2) | 未分類
2020年07月30日

難民と世捨て人

グリーン・ノウ物語第3巻「グリーン・ノウの川」より。

グリーン・ノウの川はけっこう大きな川なのか、幾つもの島があり、支流がある。ある朝子どもたちはカヌーに乗って、家の裏側にある川を漕いでいった。

人目につかず、草が生い茂り、倒木が川をせき止めている場所を超えてカヌーを進めた先で・・・
腰に粗布を巻いただけのやせた男が釣りをしていた。
この世でたったひとりで生きている人間の、不思議な表情を浮かべて。

「魔法使いだよ。」ピンがそっと言った。
「あの人、逃げてきた難民だよ。」オスカーが言った。

オスカーはたびたび難民という言葉を口にした。
1羽だけはぐれてしまった白鳥のヒナを、難民ひな鳥と呼んだ。
そしてこの場所に来る前、ツタに覆われた廃屋を見つけて、アイダが悪魔の隠れ家だと言ったときもオスカーは、「悪魔の難民だね」と、夢でも見ているような声で言った。

子どもが難民になるというのがどういうことかは想像を超える。
彼らは家族を失い、外国にいて、母国語ではない言葉を話している。

ピンがあいさつすると、男は振り返った。
「どなただな?」
「ぼくたちも難民なんです。」オスカーが言った。

アイダが差し出したキャンデーを味わうと、彼は少しずつ過去を思い出し始めたようだ。
「・・・朝めしにはベーコン・エッグ!あったっけ、ベーコンってのが!」

男の気持ちがわかった難民のオスカーとは違い、アイダは途方に暮れてこんなことをきいた。
「ベーコンを、切らしてたんですか?」

「・・おじさん、食べものを十分食べてないんじゃない?お店でベーコンを売ってないんですか?」
「店だって?」男は軽蔑したように言った。

「お金を持ってないの?」
「持ってないし、ほしくもないさ。わしがここに来たのは、お金の話にあきあきしたからだよ。
だれもかもが、それを手に入れるために生涯はたらきつづけ、だれもかもが、くる日もくる日も、しょっちゅう、それがたりないと言っている・・・」

彼は、元はロンドンのバス運転手だったと言った。
人間というものがいやになり、ある日、ここに来たのだという。

子どもたちは木の上の小屋に案内された。
小屋には蓄えた木の実や草の実、川で拾ったという生活道具があり、きれいに整えられて、片隅にはバス運転手用の服がぶら下がっていた。
彼は誰にも気づかれずにここにいる。

「ぼくたち、けっしてだれにも言いやしないよ。ぼくたちも難民なんだもの。」オスカーが言った。

ふいに男は、子どもたちがカヌーの跡を残したかどうかを気にしはじめた。誰かが気づいてここに来ては困るのだ。

「さあ、行きな。もうここへくるんじゃないぞ。
・・・わしはきみたちの夢を見た。きみたちはわしの夢を見た、な?」

黙ってカヌーを漕いでそこを去った子どもたちだったが、去る前にアイダはブリキ缶にキャンデーを入れ、ピンは枕の下にナイフを置き、オスカーは運転手の服のポケットに釣り糸を入れてきたことがわかり、みんなは幾らか気がらくになった。

家に帰るとミス・シビラがすばらしい朝食を用意してくれていた。
つまり、悪魔が棲んでいそうな廃屋の冒険も、世捨て人に会ったのも、朝食前の出来事だったのだ....

子どもの時間と空間は、大人のそれとは違っている。特に夏休みには。
好んで隠遁生活に入った川の世捨て人は、難民だろうか。
ふつうの人々のふつうの時間から抜け出さざるを得なくなったのだから、ある意味難民かもしれない。

時計もカレンダーも持たない彼の時間は、どこか子どもの時間に似ているようで、やはり全く違う。

「みんなでまた、あの人に何かおいしい食べものを持っていってあげたいわ」とアイダは言った。
アイダは難民ではない幸せな子どもだということも浮かび上がってくる。
  
posted by Sachiko at 21:49 | Comment(2) | ルーシー・M・ボストン