2022年08月04日

クロコスミア

子供の頃、裏庭に濃いオレンジ色の花が咲いていた。
グラジオラスを小さくしたような花だと思っていたけれど名まえはわからなかった。

そして数年前、隣の畑の片隅にある木の陰で、この花がひっそり咲いているのを見つけた。見たのは子供の時以来で、今年の夏も咲いている。

crocosmia.jpg

今は検索という手段がある。とりあえず“小さいグラジオラスのような花”で検索してみたら画像が出てきて、クロコスミアという名前だとわかった。


花にも流行があり、昔はどこの庭にもあったグラジオラスやダリアなどは、最近ではまったく見かけない。
調べてみると、どちらも球根を売っているところも少ないようだ。

グラジオラスもダリアもクロコスミアも、夏休みの頃に咲いていた記憶がある。

大型の夏の花といえば、子どもたちがコケコッコー花と呼んでいたホリホックは、今も道端に咲いているのを見かける。
こぼれ種でよく殖える花で、なぜか昔から電柱のそばに咲いていることが多い。

季節ごとの花は古い思い出をまとっている。環境の中に花があってよかった。
今度クロコスミアの球根を見つけたら買ってみよう。
   
posted by Sachiko at 21:54 | Comment(0) |
2022年07月27日

「我意」

1919年に書かれたヘルマン・ヘッセの「我意(Eigensinn)」は、ヘッセの全作品を貫くエッセンスを、ほんの数ページで語っている。
ヘッセが愛する唯一の徳と呼んだ我意とは何か。

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すべての他の徳、人に好まれ、ほめられる徳は、人間によって定められた法則に対する従順である。ただ一つ我意は、その法則を問題にしないものである。
我意の人は、別の法則に、ただ一つの、絶対に神聖な、自己の中の法則、「自分」の「心」に服従する。

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第一次大戦後の1919年は、あの『デミアン』が書かれた年だ。
『デミアン』は私にとっては特別な一冊で、容易に語ることはできない。
それで、というわけではないけれど、まさにそのエッセンスであるこの掌編に少し触れてみる。

ただ一つの、絶対に神聖な、自己の中の法則に従う....
一般の人間社会ではけっして奨励されず話題にもされないこの徳は、おそらくは孤独な脇道だ。


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「自分の心」は、地上のあらゆるものが持っている。
あらゆる石、あらゆる草、あらゆる花、あらゆる低木、あらゆる動物が、ひたすら「自分の心」に従って成長し、生き、行い、感じている。
世界がよく、豊かで、美しいのは、それにもとづいているのである。

宇宙においてはどんなに微小なものでも、自分の「心」を持ち、自分の法則を抱き、完全にたしかに迷わず自分の法則に従っている・・・・

深く生まれついた自分の心が命じるままに存在し生き死ぬことが許されていないような、哀れなのろわれたものは、地上にはたった二つしか存在しない。
人間と、人間によってならされた家畜だけだ・・・

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ヘッセがこれを書いてから百年以上を経て、時代はますます、あらゆるものが自分自身として存在し、生き死ぬことを許さないように見える。

もしも人間が、草や木や石のようにそれ自身であり、自分が生まれついたところのものを生きるなら、“人生”は本来どんな姿をしていたのだったか。

あのデミアンをエーテルの冷気が取り巻き、彼が星や樹木のように見えたのは、我意の人は、影のようになった今日の人間世界とは別の宇宙に属しているからだ。
  
posted by Sachiko at 22:22 | Comment(2) | ヘルマン・ヘッセ
2022年07月16日

「かぜは どこへいくの」

「かぜは どこへいくの」
(シャーロット・ゾロトウ作/ハワード・ノッツ絵)

これももう古典の域に近くなっている絵本。

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小さな男の子が楽しい一日を過ごしたあと、寝る前にお母さんにたずねる。

「どうして ひるは おしまいになって しまうの?」

「よるが はじめられるようによ。」

お母さんは答える。


ひとつのことの終わりは、別のことの始まり。

「かぜは やんだら どこへ いくの?」

「とおくへ ふいていって 
 どこかで また 木を ゆらすのよ。」


男の子は、次々とたずねる。

たんぽぽのふわふわはどこへいくの、
ずっと向こうの道の終わりはどこへいくの

雨はどこへいくの
雲はどこへいくの
落ちた葉っぱはどこへいくの

秋の終わりは、冬のはじまり。
冬の終わりは、春のはじまり。
どんなものも、次の何かへ続いていく。

「おしまいに なっちゃうものは、 なんにも ないんだね。」


「きょうは、いってしまった。
 さ、いまは ねるじかん。 そして、あした あさが きたら
 お月さまは、どこか とおいところへ いって、
 そこではよるが はじまるし、お日さまは ここへ きて
 あたらしい一日を はじめるのよ。」


まだこの世界にやってきて間もない小さな子どもには、風も、雨も、昼も、夜も、あたりまえではなく、不思議なこと。

ひとつひとつの質問に、お母さんは丁寧に答える。
お母さんは、この世界の不思議を知っているひとだ。

特別なできごとは起きないけれど、いつもそこにあるように見えるもの、大人になると気にも留めなくなるすべてのことが、しずかに尊く輝きはじめる。
どの瞬間も、ほんとうは特別なのだ、と。
   
  
posted by Sachiko at 20:49 | Comment(0) | 絵本
2022年07月06日

誰のものでもない

かつて、近所の空き地は誰のものでもなかった。少なくとも子どもたちにとっては。

そこに咲いているタンポポもシロツメクサもアカツメクサも、そのほかの名前のわからない草も、誰のものでもなかった。

それで子どもたちは勝手にそこに入って遊び、草花を摘んで冠や首飾りを作ったり昆虫を捕獲したりしたが、誰からも何も言われることはなかった。

明らかに所有者がいる庭でも、中には空き地に似た性質を持っているところもあった。

そこに子どもたちが入り込み、落ちている栗を少しばかり拾ったり、花の蜜を吸ったとしても、誰からも何も言われることはなかった。

それらは日常的な子どもの風景として認知されていた。
子どもたちのうちの誰かが、その家の住人と知り合いででもあればそれでよかった。


いつしか、どんなものにも所有権があり、所有者以外は子どもと言えども触れることができなくなった。
そして他人が所有する土地から木の実ひとつでも持ってこようものなら、窃盗罪に問われる恐れが生じた。


かつて先住民たちは、聖なる大地を所有しようなどとは思いつかなかった。

そこへ所有したり売り買いする人たちがやってきて、住んでいた土地を追われた。土地だけではない。領海とか領空とか、海や空までも誰かのものらしい。

土地を所有し、それを売ったり貸したりして利益を得るのは、霊的に見れば盗みなのだとシュタイナーは言う。
けれど現代人である以上、誰もそこから逃れられない。

本来、誰のものでもなかった地球。
今や、誰のものでもないものはもうほとんど残っていない。


ほおずきの白い花が咲いている。
子どもの頃、ほおずき人形を作ったりして遊んだけれど、あのほおずきはどこから持って来たのだったっけ。

誰のものでもない星の上で、ただそこにある木や草花を楽しみ、生きものと戯れるシンプルさの中に、人間はふたたび到達できないものか。
空き地で遊んだ子どものように。
  
posted by Sachiko at 22:07 | Comment(2) | 未分類