2021年04月17日

魔法にかけられた王子

メルヒェンには、王子が魔法によって姿を変えられてしまった話がよく出てくる。
「雪白とばら紅」では熊の姿に変えられ、「かえるの王さま」では、ヒキガエルに変えられている。

ヨハネス・シュナイダーの「メルヘンの世界観」によれば、動物に変えられた姿は、人間が本来あるべき状態にない、ということを意味している。

多くのメルヒェンに、幾つかの共通するパターンがある。
太古の叡智(しばしば黄金で表わされる)が生きていた時代、その叡智を失って人間にふさわしくない姿で生きなければならない時代(現代はこの時代)、最後に、人間が本来の姿を取り戻す時代。

近年、縄文などの古代の叡智や先住民の智恵が再び注目され始めているのは、本来の姿を思い出そうとする意志が目覚めてきているということだろうか。

けれどそれは太古の黄金そのままに先祖返りするのではなく、現代のような困難なプロセスを通って、新しい黄金に紡ぎ直されなければならない。そうして獲得した自由な意識をもって、個であり全体であるという未来の意識にたどり着く。


「かえるの王さま」では、王女がカエルを壁に叩きつけることで魔法が解けるのだが、これが残酷だとやらで、王女がカエルにキスをすると王子に戻るという奇妙な改変バージョンが出回っている。
この改変についてはかつてミヒャエル・エンデがかなり憤っていた。

「・・まさにその攻撃によって王女は王子を救い出す。こういう図式に理解を示さず、外面的な意識で童話をいじくりまわすなら、童話の意味はこわれてしまう。
現代人は頭がすっかりおかしくなって、もはやさまざまな平面を区別できなくなっている。こういう事態こそ、恐るべきことなんだ。」(「オリーブの森で語りあう」より)


メルヒェンは根源的な物語だ。
そこには宇宙的な時間における人類の発達段階が描かれているのだとしたら、現在は魔法にかかって動物の姿になっている人類も、やがてその段階を超えて本来の人間性に至ることが約束されていることになる。

メルヒェンの中でその未来は霊視されていて、王子と王女の輝かしい結婚と幸福の姿で描かれる。
魔法という悪の働きによって動物の姿に変えられた人間は、本来、天の王族だったのだ。

ならば動物の姿に絶望することはない。
正統なメルヒェンは、人類のあるべき未来への希望の物語とも言える。
  
posted by Sachiko at 22:23 | Comment(0) | メルヒェン
2021年04月14日

白い呪文

マリア・グリーペ「森の少女ローエラ」より。

森に帰る日の早朝、ローエラは市役所の前にある美しい古い泉にやってきた。水道管の中に押し込められずに、生き生きと自由に流れる水。

この泉で水浴びしてから町を去ろうと決めていたローエラは、服と靴を脱ぎ、下着だけになって泉に飛び込んだ。
まるで森にいるような、自由、喜び!空に舞い上がる小鳥になった気分!

「ここは公共の水あび場ではないんだぞ!」

いつの間にか警官がそばに来ていた。

「あたし、きょう、うちに帰るんです。さようなら。」
「そりゃよかった。じゃ、さよなら。」

寮母のスベアおばさんが車で駅まで送ってくれる。モナもいっしょだ。途中、アグダ・ルンドクヴィストの家に寄って双子の弟たちを受けとる。

ローエラと弟たちが乗り込んだ汽車が動きだした。
モナとスベアおばさんは汽車と並んで走るが、やがてふたりの姿は遠ざかり、見えなくなった。

町の人たちと深いつきあいをしなくてよかった。そうしていたら、別れはとても辛かっただろう。

駅にはアディナおばさんが馬車で迎えに来ていた。
村を通るとき、あのすてきな青いブラウスを着たローエラにみんなが目をとめた。もう誰も「ノミのローエラ」などと言わない。

村を抜け、道は森の奥深くに入っていく。

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ローエラは、ふと身ぶるいをする。しずけさと、木立ちのかげと、〈落日のしずかな雨〉。

「日の光、ヒメマイヅルソウ、森の小道.....」

ああ、ついに帰ってきた、あたしのふるさと。

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ローエラが機嫌のいいときの呪文、長いあいだ口にしていなかった言葉が、ついにここで出てくる。
(言葉が少し違っている。物語の前半で触れられたときは「「白アネモネ、日の光、ヒメマイヅルソウ」だった。)
ヒメマイヅルソウは、初夏の森に咲くとても小さな山野草で、北海道の森でも見られる。

都会という夢から醒めて、ローエラは本来の自分を取り戻していく。
美しい夏景色は、それがローエラの失われた一部だったかのように、今、戻ってきた。

太陽の光、道端のあざやかな緑、花々、ミツバチの羽音、小鳥のさえずり....
町にはない、ほんとうの静けさ。大気と風のそよぎ。

アディナおばさんの助けがあったとはいえ、森の家で弟たちの世話をしながら、時には村へ“遠征”もしなければならなかった頃の暮らしは過酷だったはずだ。

にもかかわらずローエラにとって、森はこんなにも喜ばしいふるさとだったのだ。
人工物だらけの都会と違って、大気も水も光も風も、ここではほんとうの輝きを持っている。

日の光、ヒメマイヅルソウ、森の小道....

森の善きものすべてに対する感謝と祈りのことばが今、しあわせなローエラを静かに満たしていくようだ。
   
posted by Sachiko at 22:23 | Comment(0) | マリア・グリーペの作品
2021年04月11日

禁じられた遊び

子どもの頃、ある時私たちは、「仲間はずれごっこ」という遊びを発明した。
これだけ聞くとギョッとするかもしれないけれど、別に誰かを仲間外れにしようとしたわけではなく、むしろ逆だった。

 「〇子ちゃん、なかまは〜ずれ♪
 だって、きょうひとりだけスカートはいてるもん♪」

 「あ、そっかぁ♪」

と、こんな感じで、まず違いを見つけ、それを互いに受け入れあう遊びだったのだ。

楽しく遊んでいたのだが、ある時ひとりの子がうかない顔でやってきて、お母さんから「仲間はずれなんていう悪い遊びはやめなさい!」と禁止されたと言った。

私たちは互いに「そんなんじゃないのにね....」とブツブツ言い合ったが、禁止されてしまったのでそれきりその遊びはしなかった。

いつの時代も、大人というものはしょうがない。
そのお母さんは遊びの中身を見ずに表面の言葉だけを捉えて怒ったのだ。

私の親世代などは、ゲームも精巧なおもちゃもなく、自然の中を駆け回って遊んだ世代のはずなのに、やっぱり想像力に欠ける杓子定規な大人になってしまったのはなぜだろう。

ある程度、天性というものもあるのかも知れない。
自由な想像遊びが好きな子と、決まったルールのある遊びが好きな子はいた。

そして学校というものは、いつの時代にも杓子定規な規則が多かっただろうが、この点では今の学校のほうがむしろブラックではないかと思う時もある。

以前、昔小学校の先生だったというあるおばあちゃんが、「天気のいい日には授業をやめて、みんなで近くの野原へ遊びに行ったりした」という話をしていたことがあった。
何でも“問題”にされてしまう今ならただじゃ済まないかもしれない。

高校の時、近くで野球部(とても弱い...)の試合があり、あるクラスで全員が野球の応援に行ってしまい、先生が授業に行ったら教室がもぬけの殻だった事件があった。

この種の事件(今なら全国ニュースで問題にされるかも知れないものも含めて)はいろいろあったが、笑い話になっても事件扱いにはならなかった。

片目をつぶって出来事を笑う大らかさのようなものが失われて久しい。
ガチガチに締めつけることが子どもの成長に益するとは全く思えない。
いのちは自由で創造的で、笑いが大好きだ。


最近、「コピー転載自由」と書かれていたので、検索ボックスの上に勝手にリンクを貼った『森へ行こう』というブログがある。

子どもと自然の関わり、その中での感覚の発達、そして現代的な課題...等々、毎日更新されているので興味のある方はどうぞ。
と、勝手に宣伝しているけれど、別に回し者ではありません。
  
posted by Sachiko at 21:51 | Comment(4) | 未分類
2021年04月09日

四月の雪

三月のなごり雪は、やはり最後の雪ではなかった。

昨日から今朝にかけての雪でチューリップの周りも白くなっていたが、まさに淡雪、間もなく消えてしまった。

aprilsnow1.jpg

チオノドクサ(別名グローリー・オブ・ザ・スノー)も、雪をかぶってその名の通りの姿になった。

aprilsnow2.jpg

aprilsnow3.jpg


マザーグースにこんな歌がある。


 三月の風と 四月の雨が

 五月の花を連れてくる


 March winds and April showers

 Bring forth May flowers


四月の雨ならぬ雪をひとときまとったチューリップは、五月にはいっせいに鮮やかな色彩をまとう。
   
posted by Sachiko at 21:53 | Comment(2) | 自然