2020年10月24日

強すぎる光

「ANAM CARA -- A Book of CELTIC WISDOM」(John O'Donohue)より。

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現代人は、かつてないほど霊的に飢えている。
人々はますます内なる世界に目覚め、永遠なるものへの飢えと渇きが魂の内に沸き起こっている。これが新しい意識の形なのだ。

しかしながら、この霊的な飢餓の有害な側面のひとつは、強烈で執拗な光ですべてを照らし見るというやり方にある。

現代人の意識は穏やかでも敬虔でもなく、神秘に対する配慮なくして未知なるものを暴きだし、支配しようとする。

どぎつい光は、魂の翳りの世界に寄り添うには、あまりに直接的で明晰すぎる。それは秘めやかに隠されたものに対する礼を欠いている。
ケルト人の精神は、個々の魂の深みと神秘に対する敬意をわきまえていた。

魂はすべてを露わにさらけ出すようには作られていない。むしろ薄明りの中にあることを心地よく感じる。

電気がなかった頃、人々は蝋燭の灯りで夜を過ごした。
蝋燭の灯りは闇に親しむ理想の光であり、そっと暗闇に洞を開けて、想像力の活動を促す。

蝋燭の灯りは魂の神秘と自律に敬意をはらい、ふさわしい仕方で照らすことを心得ている。
その灯りは入口にたたずむ。光は聖所に踏み入る必要はなく、そうしようとも思わない。

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以前書いた、アイルランドの妖精話に出てくる話を思い出す。
アイルランドの隅々まで電気が普及して以降、妖精にまつわる体験談が急速に消えていった、という。

強い光のもとでは神秘がかき消されてしまう。これはまさに現代人の魂にとっての危機である。
“薄明り”は、ケルト文化のキーワードのひとつのようだ。

ウィリアム・バトラー・イエイツの「ケルトの薄明」(The Celtic Twilight)という本がある。
土地の語り部である老人から採話された、妖精や幽霊、不思議なものたちの物語にイエイツが編集を加えたものだ。

妖精たちは、薄明りの中の住人に違いない。
彼らは人間の魂の、秘めた暗がりに親しいものたちで、蝋燭の灯りのもとで語り継がれるのがふさわしかっただろう。

強い光で照らすことで、すべてが見えるようになるとは限らない。
薄明りの中、繊細な魂が敬意をもってそっと触れることでしか見えないものが確かにあるのだ。
  
posted by Sachiko at 21:15 | Comment(0) | ケルト
2020年10月21日

秋の火

秋という字には、火が入っている。
木々が紅葉することから来ているのだろうが、自然界が燃焼するのは夏で、秋はそのあとの灰の季節なのだそうだ。

季節の気分というものは、言葉にしがたいけれど確かにある。
秋の湿った土から立ち昇る冷気は、落ち葉が分解していく独特の香りを運ぶ。

それらも、立ち止まって感じようとしなければ、日常の慌ただしさの中で気づかずに通り過ぎてしまうだろう。

秋の夕刻に蝋燭(キャンドルよりこう呼びたい)に火を灯すと、季節の気分はいっそう色濃く浮かび上がる。

かつて暮らしの中には生きた火があり、炉辺の物語は、年長の人々から生きた声で語り伝えられた。

都会生活からはいつの間にか、ほんとうに生きているものがとても少なくなってしまった。

自然霊たちは、人間の意識を必要としている。
世界各地の大規模な山火事などは、人間とのつながりを失ったサラマンダーの嘆きの叫びではないのかと思う。

地水火風が自然界の構成要素なら、それは当然、自然の一部である人間自身の構成要素でもある。

それらが調和のとれた姿をしていることは、人間社会のためだけでなく、宇宙的なバランスのために必要なのだ。

秋、せめて小さな火を見つめ、耳を傾けてみる。

autumncandle.jpg
  
posted by Sachiko at 22:15 | Comment(4) | 季節・行事
2020年10月19日

アナベルのドライフラワー

アナベルは、咲きはじめの淡い緑色が美しく、咲き切ると真っ白になり、枯れてくると再び緑色になる。

白く咲いているときはまだ水分が多いので、うまくドライにならず萎れてしまう。
ドライフラワーにするには、枯れて緑色になった頃がいい。

annabelledry.jpg

こうして、アナベルは長く楽しめる。
秋には、枯れてなお美しいものたちが、澄んで淡くなった光を浴びている。

窓から見える山もすっかり紅葉になり、先日は初冠雪が観測された。
もうチューリップの球根を植え付ける時期になり、気がつけばフワフワと雪虫が飛んでいる。
  
posted by Sachiko at 22:07 | Comment(2) |
2020年10月17日

見えなくなった少女

「ムーミン谷の仲間たち」より

ある雨の夕方、トゥティッキがムーミン家を訪ねてきた。
ニンニという名前の少女を連れてきたようなのだが、そこには誰の姿も見えない。

ニンニはおばさんからひどくいじめられすぎて、姿が見えなくなってしまったのだとトゥティッキは言った。
ニンニの首に付けた小さな鈴だけが、少女がそこにいることを知らせていた。

トゥティッキが最初に登場した「ムーミン谷の冬」でも、彼女は、あまりに恥ずかしがり屋のため目に見えなくなったトンガリネズミたちと暮らしていた。
姿が見えなくなったものたちの“存在”が、彼女には見えているようなのだ。

トゥティッキが帰ってしまったあと、ムーミン家の人々は、姿の見えない少女を戸惑いながらも受け入れる。

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ママは階段をおりて自分のへやにいくと、「家庭にかくことのできない常備薬」と書いたおばあさまのふるい手帳をひっぱりだして、目をとおしはじめました。

すると、とうとう手帳のおわりちかくに、ずっとお年よりになってから書かれたものなのでしょう、ふるえぎみの字で、「人々がきりのようになって、すがたが見えなくなってきたときの手あて」としてあって、二、三行書きくわえてあるのをみつけたのです。

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薬が効いてきたのか、ニンニの手足の先が少しずつ見えはじめた。
みんなが寝たあと、ムーミンママはピンクのショールで、ニンニの服とリボンを縫う。翌朝その服を着たニンニは、首のところまで見えるようになった。

ムーミンとミイはニンニを遊びに誘ったが、ニンニは遊びを何一つ知らないようだった。

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「この子はあそぶことができないんだ」
と、ムーミントロールはつぶやきました。
「この人はおこることもできないんだわ」
と、ちびのミイはいいました。

「それがあんたのわるいとこよ。たたかうってことをおぼえないうちは、あんたには自分の顔はもてません」

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ママはおばあちゃんの薬をずっと飲ませていたが、顔が見えるようにはならなかった。

ある日みんなは海岸へ出かけた。
パパは子どもたちを面白がらせるために、桟橋にいるママを突き落とすまねをしようと、後ろから忍びよる。
その時、叫び声を上げて、ニンニが桟橋を走りぬけ、ムーミンパパのしっぽに噛みついた。

「おばさんを、こんな大きいこわい海につきおとしたら、きかないから!」

赤毛の下に、ニンニの怒った顔が現れた。
大好きなママのために怒りを表に出し、顔を取り戻したニンニはもう、遊ぶこともできない怯えた少女ではなかった。

人が「その人である」ことの象徴である「顔」を失うとき、そしてそれを取り戻すとき....
現代社会で、自分のほんとうの顔をはっきりと持っている人はどのくらいいるだろう?と、ふと思う。

何を感じているのか、どうしたいのか、何が好きで何がきらいで何が大切なのか。それらが曖昧になるとき、その人の姿は霧のようにぼやけていく気がする。
見えなくなった少女ニンニの物語は、ムーミンシリーズの中でも深い。

それにしても、「人々がきりのようになって、すがたが見えなくなってきたときの手あて」....と、ムーミンママのおばあさんの処方箋にはこんなことまで書かれているとは。
   
posted by Sachiko at 22:34 | Comment(2) | ムーミン谷